職場の理解があって、とりあえず一か月ほど仕事を休むことになった。
時間に余裕があるので、考えるともなしに色々な事を、ぼんやりと考える。
昔から私は、自分に対しての漠然とした不安を、常に持っていたように思う。
なにか、自分の近くで良くない事が起きると、私が関わったからではないかという考えが、いつも頭をよぎった。
結婚前、夫にその考えを話した時、
そんなわけないだろう、魔女でもあるまいし。
おこがましいことを言ってると、一笑に付した。
確かにそうかもしれない。
天気まで変えれる影響力?
そういえば高校生の時、どんどんどんどん雪が降ってくるのを、教室の窓から眺めながら友人と話していた。
「このまま汽車が停まるんじゃない、帰れなくなるね、ざまぁ」と、ヘラヘラしながら軽口を叩き、ふざけたら
「あんたが言うとなんとなく本当にそうなりそうだから、やめて!」
「悪いことが本当にそうなりそうで怖いんだって。」
友人も笑いながら冗談で言ったのだけれど、今でもその言葉をなんとなく覚えている。
その時、実際にめったに停まらない雪国の汽車が停まり、帰れなくなり、友人はとても困っていた。
以来、冗談でも、なったらまずいことは絶対に言わないようにしている。
判断を間違えた後悔。
大切な我が子が、思い出すだけで恐怖を感じるような交通事故に遭った。
無事だったのだから、気持ちを切り替えて前に進もうと思いながらも
また、良くない方向に自分が向かわせたような考えがよぎった。
事故のあったあの日。
私は、仕事が終わった夕方、娘からのラインを見た。
(今日は、そういえば夕方宅急便が来るから、やっぱり明日帰ろうか迷っている。)
そんな内容だった。
娘は次の日、朝からこちらで用事があるので帰省することになっていた。
私はすぐに、
(明日の朝、移動するほうが大変じゃない?)
と、返信した。
(そうだね。遅くなってもやっぱり今日帰るね。)
その数時間あとに、事故の連絡があり、山の中で電波が悪くしばらく娘との通話が途絶える。
後悔。
娘が帰ってくる。
娘が2人揃うのが嬉しくて、楽しい夜を想像した。
張り切って、おかずを作っている最中だった。
どうせアパートでろくなものを、食べないんだろうから、今晩のうちに帰ってくればいいじゃない。
そんな母親の自己満足。
食べさせたい、だったり、顔が見たい、だったり。
母親の嬉しい気持ちや喜ぶ顔に、大人になった子供はいつしか応えようと無理をする。
自分も娘だから、とても気持ちが分かる。
娘は、私に言われて少し無理をしたのだろう。
疲れてるけど、めんどくさいけど、今晩帰ってあげようかな。
そう思って出発し、近道をしようと山道を通ったのだろう。
優しい娘だから、なんとなく分かる。
もしかしたら取り返しのつかない事になっていたのかと、思い出すたびに胸が苦しくなり、後悔してもしょうがない事を、いつまでも考えていた。
言葉のちから。
職場の人や、ネットで繋がった人、本当にありがたく優しい言葉をたくさんもらい、話したり、メッセージを読みながら、次第に気持ちが落ち着いてきた。
最近、私は非常に幸運で、人に恵まれた人生なのだと実感している。
誰の人生も、言わないだけで様々なドラマがあるように、私にも人生のどん底を感じる出来事は、過去にいくつかあった。
20代でアパートに変質者が入ったり、親の離婚で夜逃げのようにトラックで引っ越しをしたりと、ハードな経験もあったが、今考えると自分自身のその後は、いずれも好転している。
変質者に侵入され、神奈川で住む場所を失った後も、職場の人に知り合いを紹介してもらい、破格の家賃で住まわせてもらえ、ものすごく親切にしてもらった。
その後も、親の離婚がなければ、地元に帰ることもなく、我が子達に会うこともなかったと思えば、不幸な出来事であっても、私にとっては必然だったようだ。
そして、この出来事にもきっと意味があるのだろう。
娘も私も、あれが人生好転するきっかけだったと、思う日が来ると確信している。
ココ
たくさんの励ましのメッセージ、ありがとうございます。
言葉って凄い!!
めっちゃ元気出ます。