母について

嫌でも似てくる母と娘の考え方

母について

悩む理由は人それぞれで、悩みの前では皆自分が主役だ。
なにで悩もうがご自由にである。

切羽詰まった感情。


私は30代で鬱病と診断された。
きっかけは身近な人の不慮の死だったがそこから自分のありとあらゆることが嫌になった。
頑張ることもむなしく感じまったく力が入らなくなる。
眠れず食べれず頭の中の希死念慮に乗っ取られそうな感じ。
でもやらなければならない事だけは普通にこなせていたのでそれが正確な診断だったかは怪しいものだと思っている。


今だから言えるのだが当時、車を運転するたびに「このハンドルをすこし右にきって、中央分離帯に衝突すれば単なる事故と判断してもらえるか」そんな事が一瞬よぎり手が汗びっしょりになることがあった。

ニュースで不慮の事故で若くして亡くなった話を聞く度になにかうらやましいような感情でじっと見ていた。自らの意思と思われないように楽になりたいと思った。
世の中には生きたくても生きられない人だっているのに、罰当たりであの頃の自分の考え方は最低だったと思う。



その時私は結婚し親にもなっていたのにだ。
こんな後ろ向きな考え方を持った自分みたいな親に育てられる子どもが気の毒でしょうがなかった。
表向きは普通にしていても気持ちは真っ暗。

言わなきゃよかった。


そんな頃に母と電話で話す機会があった。
きちんと自分の状態を説明したわけではなく、なんかつらいって感じだったと思う。
一気に母は気色ばみ不機嫌になった。
そして一気に言われた。

一体なにが辛いの?甘えるのもいい加減にしなさい。
あなたは現状めぐまれている。
きちんと働く優しい夫がいるのに何が不満なの?
なんなら小さい頃からあなたは恵まれていたほうだと思う。
食べるのにも別に困ってないでしょ?
なに不自由ないじゃない。悩む資格なし。

ぐうの音も出ないというのはこの事だと思った。
「しまった!」迂闊にも母に甘えようとしたのだ。激しく腹が熱くなりひたすらうつむいて聞いた。泣くのは悔しい。体の震えをとめるのに苦労した。

たぶん母と同じくらい不幸にならなければ、辛いと言う資格などないのだと思った。
確かに母は酒飲みの父で苦労したからそれと比べたら幸せな状態なんだろう…
きちんと細かな自分の体調などの状態を説明すればこんな返答はきっとなかったのだと思う。
きっと心配して相談にも乗ってくれたのだろうが、複雑な状態と気持ちをうまく伝えることができなかった。



後日胃の痛みが治まらず限界が来て病院に行き、即カウンセリングに回された。
あまり眠れないと言った事と体重の減り方を聞いてドクターが判断したようだ。
後から聞いたらその内科は精神科も兼ねた有名病院だったらしい。

母と考え方が似ていた。

カウンセリング室のドアを開けた。
暖かい部屋だった。


座ると体が埋まるようなソファに優しい眼差しの女のドクターだった。
余裕のある笑顔。自分と同じくらいの年だった。優雅な雰囲気だった。

聞かれる色々な質問に適当に答えながら心の中はぐるぐるしていた。


あの時計高そう。医学部終わってるから実家お金持ちで頭がいいのだろう。
なんで家庭の事情をこの人にはなさなきゃならないのだろう。
苦労したことない先生に分かるわけないじゃん。どうせ鬱病って書くんだろうな。
それにしてもこのソファ座りにくい。普通に椅子で良くね?早く終わらないかな。欝でいいです。

大丈夫なんで早く眠れる薬ください。


そんな時も顔は辛いが頑張っているけなげなママを演じていた。
先生の思う通りに答えて欝になりきろう。
わたし得意なんですそういう顔。

優しさに包まれて育ったあなたにきっと分からない。
学校でカウンセリングを習ったかもしれないがきっと先生にはわからない。


あ!と気がついた。
私は母と全く同じ考えだったようだ。
同じ経験をしてなければわかるはずないと相手の言葉を受け入れない。
やはり親子は似ているのかなと思った。


結局、山のように出された薬を飲んで眠れるようにはなったが途中で飲むのをやめた。
なんとか自力で元気になったのであの診断が正しかったかは今も分からない。

嫌だった自分の負の感情に押しつぶされそうだった当時の私…
女性は特に母親と自分の似た部分に苦しむ時期があるのかもしれない。


                       ココ






コメント

  1. ココ より:

    そうですね。
    自分の病みと付き合いながら生きて行こうと思います。
    誰もがそうなる可能性がありますよね。

  2. スティンガー五郎 より:

    優しく包まれた環境の中でも確実に心の病気に乗っ取られてしまうことは多々あることだと思います。
    事実、私も相当に心を病んでいた時期がたしかにあり、今でも病んでいるのだと思っています。

    悲惨で過酷な状況になって初めて心の病気を認めてやる!みたいな風潮は間違っていると思います。
    柔らかく優しく包まれている環境でも、ボタンの掛け違いで、ふとしたことで心は病んでしまうものですよね。