私ほど不器用な人はあまりいないだろうなと思うほど不器用だ。
これほどなにをやってもへたくそな人はあまり見たことがない。
ここまでいくとこれも才能なのではないかと思っている。
これでもいつも真剣勝負。
小さい頃からそうだった。
図工も家庭科も作るものはすべて規格外のアート作品になった。
小学校の写生大会では、馬小屋の絵を描いた。
色を塗っているうちに何を描きたいのかわけが分からなくなった。
汚いパレットで混ざった色で塗りたくった馬小屋の土の色が、
「どうやってこんな複雑な色に混ぜたの?とてもいいです。」
先生に不本意なことをほめられたりした。
今では絵を書くと子供たちに画伯と言われる。
長女は私が書いたキリンの絵を就職試験の時緊張しないためのお守りに持っていった。
「キリンに見えなすぎてうける。緊張感がなくて見ると落ち着く。」
やばい絵なんだそうだ。
運動神経も悪い。ダンスの振り付けもなかなか覚えられない。
でも私の両親は手先が器用だった。
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いまならたぶんパワハラとか言うのだろう。
高校生の時。
体育祭で学年の女子全員で扇子をもって日舞のようなのをやった。
全員で動きが揃うと扇子の色が一斉に変わり見応えのあるかっこいいやつだ。
扇子は表裏で色が違っていて紫と黄色だった。
体育館で先生と向かいあわせで習う。
単純に左右逆にすればいいのがすんなり出来ない。
同じ向きになってもすんなりは出来ないのだが本当に全く頭に入らない。
ずっと目の前の人の動きの真似をして適当にやっていたらある日ステージ上から見ていた鬼のような体育の先生がステージから叫んだ。
「今からダメな奴の名前を言う。そいつら以外座っていいぞ。」
団塊の世代の子供世代。女子だけでも150人くらいいただろう。その中から数十人の同士達が残った。
「さあもう一度やって見ろ。」
公開処刑が始まった。
「扇子が毎回合わない。色がちがうやつがいるぞ」
皆が体育座りで見守る中音楽が鳴りよろよろと舞う。ひどい動きだ…
目の前にお手本の人がいないのでさっぱりどうすればいいか分からないのだ。
「○○座っていいぞ。○○も合格…」
どんどん同士達が減っていく。
音楽はエンドレスに続き最後の3人にまで減った頃チャイムが鳴った。
「今残った奴らは放課後に体育教官室に来い」
まただ。
いつも体育教官室に呼ばれていた。
2重跳びが出来ない、バレーの真上に上げるトスができない。
事あるごとに体育教官室に呼ばれる常連だった。
体育教官室という響きからして嫌いだった。
大人になってもあいかわらず。
大人になってもそれは変わらずマタニティビクスでは鏡に映った妊婦の中で私だけいつも逆方向に動いていた。
あんなにできなくても参加できるのかと、まわりが楽な気持ちになったのではないかとおもう。
数年前はいくら子供達に教わっても恋ダンスも出来るようにならなかった。
星野源のライブに行った時、客席の人も一斉に恋ダンスをやっていた。
あのときの疎外感は今でもわすれられない・・・
子供達は幸い全員程々に運動神経はあった。
特に長女は手先が器用で絵もうまい。
独特の世界観の絵を書く。
なんともうらやましい限り。
つくづく子供といえど完全に別人格であると思い知る。
スプーンやハサミの使い方を教え、服の着方から教えた子供がいつの間にか自分よりも数倍も出来ることが増えていく。
親はいつまでも偉そうにしていても、とっくになにもかも越しているのだ。
自分の子供が出来る事が増えるように、
自分の親が出来ない事が増えていくのだろう。
後はきっとお互いに教えることも教わることもほとんど残っていないのだ。
いざとなって子供が迷っていたら、何年か多く生きてきた分のアドバイスくらいできるだろう。
たぶんそんな機会はあまりないだろうが。
それにしても。
今の子は踊れる。
今更だけど恋ダンスができるようになりたい。
ココ