私は人に本心を出さずいつもヘラヘラとふるまってしまう癖がある。
このヘラヘラや曖昧さを全然許してもらえない手強い友達が数人いる。
手話とろう者との出会い。
10年ほど前に手話を習っていた。
前から興味があったのだが色々なタイミングがあって講座に通った。
講師がろう者でそれを手話通訳が説明するというスタイルだった。
手話は手だけではなく、口の形や表情を使う。
悲しいという言葉を言う時は悲しい顔、嬉しいという時は嬉しい顔をする。
手話講師の教室は落語やチャップリンの映画を見ているようで、毎回笑いに溢れ夢中で学んだ。
よくテレビなどで合唱に手話がついたりするのを見てほのぼのした世界に感じていたが実際は違った。
手話は激しい喜怒哀楽を表現する魅力的な言語だ。
手話とろうの講師達の魅力にどんどん引き込まれた
何度か通ううちにろうの講師やその友達とあっという間に仲良くなった。
皆驚く程に積極的なのだ。
最初のうちは紙に書いての会話が多かった。
早く仲良くなりたくて話したいことを前の日に練習してその場にのぞむ。
想定問答ってやつだ。
話したい気持ちと恥ずかしさを捨てればどうにかなる。
出川イングリッシュのようなものだ。
ろうの友達と会話をした日はものすごく目と脳が疲れる。
めちゃくちゃ一生懸命になって見るから目がしょぼしょぼになった。
だんだん仲良くなると飲みに行ったり、一緒にスポーツをする会に誘われて出かけることが増えた。
ろう者は運動神経がいい人が多い。
そして器用な人も多い。
多分聞こえない分を目で補うのだろう。
体で表現したり見た物を再現する能力が高い。
走り書きした絵なんかも上手い。
研ぎ澄まされた見る力だ。

実際私は何をやってもかなわなかった。
手話だけでなく色々な事を教わった。
そしてお互いかなり真剣にぶつかり合う事もあった。
うまく伝わらないこともあった。
ラインが鳴る。
しょっちゅう来る遊びの誘い。
即答できず一旦保留にする。
「行けたら行きます。」
積極性と内向的。
2つの正反対な性質のある自分はこの言葉をよく使った。
行きたい気持ちと面倒くさがりで出不精な陰キャな自分で迷い葛藤する。
「なんかめんどくさい」
いつも一旦誤魔化すのだ。
でも、ろうの友人にはこんな曖昧さは絶対に許してもらえなかった。
たいていはラインがまどろっこしくなってビデオ通話がくる。
文章だと伝わらないこともある。
思いっきり目を見て手話で聞かれる。
書いてる意味わからん。
どっちなのかハッキリして!
ふだん圧の強い人が苦手な私だが毎回こうなると慣れる。
別に断るなと言ってる訳でもないしただ答えを明確にハッキリして欲しいだけで
裏表がない。
このやりとりから自分がいかに無意味な保留や答えを曖昧に誤魔化していたかが分かった。
普通にある差別。
この仲間と出かけて気づくことも多い。
人は悲しいけれど無意識で人を見下しがちだ。
私たちのグループ全員が聞こえないと思い込み、差別的な事を平気で声に出して言う人もいた。
手話を使っている私が聞こえているとは思わなかったのだろう。
見た目で分からない障がいならではの嫌な時間。
そんな時知らないふりをしてさんざん喋らせておいた。
私だけに聞こえている悪口。
悔しい気持ちだった。
どこかのタイミングで私がしゃべりだして、健聴者だと気づくと急に気まずそうな顔をする。
こんな事は1度ではなかった。
数年前に障がいのある人への合理的配慮が法律で義務になったが実際はなんともイマイチな感じだ。
実際にろうの人は言う。
聞こえない私たちは、海外旅行に行っても全く苦労したことがない。
海外の人は表情豊かでコミュニケーションがとりやすく、なによりも
自分たちに対しての壁がない。
コテージに泊まりに行って散々騒いだ後の夜中。
彼らの幼い頃から受けてきた差別の歴史を聞いた。
彼らの過去の辛さは私の親がどうだったとかそんな話とは比べ物にならない。
夜が更けるまで語りあい、最後には彼らはかならずこう話した。
やりたい事を死ぬまでに全部やる。
まだまだ見た事がない物をたくさん見てから死なないともったいない。
私は聞こえないから見たいし体験したい。
食べた事がないものは食べてみたい。
できる範囲で限りある人生楽しむべきだ。
悩む時間がもったいない。
そんな事を手話を使って熱く語った。
いつまでも前に進めないでいた自分にとってこの貪欲でポジティブなエネルギーは眩しかった。
そしていい意味で感化されていった。
あるものでどうにかする。
一緒にバーベキューをしたとき。
それぞれが持って行く物の担当があった。
調味料担当の私がサラダ油をすっかり忘れていた。
ごめんごめんとこの世の終わりのごとくへこんでいたら
すかさずドレッシングの上のほうで分離した油を使って炒め物をしていた。
機転が利くのだ。
「あるものでどうにかできる。頭使え!おばか」
手話は表現力豊かなので本当に馬鹿という表現がうまい。
こう言われぎゃふんとなった。

Mr.ビーン カンヌで大迷惑?! (字幕版)
友人は海岸の流木を子供達に競走で拾わせる。
「行ってこい!」
子供たちは子分のようだった。
拾った棒切れで棒パンを作った。
最初は緊張していた手話など分からない子供達。
いつの間にかジェスチャーで平気でコミュニケーションをとっている。
小さい子供には最初から壁がないのだろう。
ろうの人達のうますぎる身振り手振りにミスタービーンを見ているような大爆笑で遊んでいる。
ほおっておいてもどうにか会話ができているのだ。
全てがワイルドで生きる力に溢れていた仲間だった。
会う機会が減ってしまった。
あれから随分たつ。
色々なことを教えてくれた仲間にいつかまた会いたいと思う。
ココ
コメント
Nick Ollieさんだんだん正直に生きるように変わっていくと
楽だよね。
手話は本当に魅力的で感情も伝わるし、なにか前にあったことを話してるところなんかまるで落語を見てるようでした。
やりたいことをやるってコロナもあって難しいけど、そういう気持ちでいると前向きで希望を感じるよね(^^♪
akazukinさん
ぜひ機会があったら街の講座とか覗いてみてください。
大丈夫とか、分かったとか、ありがとうとか単語を使うだけでも喜んでもらえる気がします。
へー!って感嘆するときの手話もあるんですよ。
手話、私も習ってみたいなーって思ってたこと、ありました。
娘の最初の保育園に耳の不自由なお母さんがいらして。
離婚して引っ越しする前に、お家にお邪魔するぐらい仲良くなったから
手話ができたら、もっと自由に会話できたりするのかなーって思って。
引っ越ししてからも、長いことメールのやりとりをしてました。
「行けたら行くねー」は私もよく断る時に使ってたな。でも使い分けてた。特に親しくない知り合いとか、うすい友だちとかに言ってたなぁ。
年とってきてからは、だんだんどうでもよくなって、「ごめん、行けない」と言うようになってきた。そしたらすごく楽チンになってきた。
手話ってもししたらすごくダイレクトに表現できるのかな?
人生やりたいことを全部やる、って言葉に「いいなぁ」と思いました。私も見習いたい。やりたいことやる!
つぶあんさん
立て続けに断ることになっちゃうときなんか、断るんだけど一旦濁してました。
たしかにいかにも日本人的かもです(^^♪
鳥天さん
残念な人だったわ私。
そうだよねー。
相手時間を奪ってるんだよなってコメント読んで思った。
最近コロナもあってそんな機会無いけど、次は即答しようと思う(^^♪
やよいさん
確かに高齢の方にはゆっくり話すと伝わりますよね。
口元を見て、しばらくしてからピンときますしね。
伝えようとする話し方も大事ですよね。
手話はアメリカ手話と日本の手話と違うんですが
違っててもジェスチャーも使ってなんの不便もなく会話できるって言ってました。
手というより表情で会話してるような気もします。
五郎さん
ネットの世界と確かに似てるかもです。
障害っていつ自分の身に起きても不思議ないことなんですよね。
生まれつきでなくても十分あり得る事であって、
そして障害があっても決して劣ってるわけでもないんですよね。
アスポンさん
本当にそうなんですよー。
気まずいようなことは言わなきゃいいんですよね。
悪口って聞こえてなくても嫌な感じがして伝わる気がします。
ドレッシングの油を使ったのは、
賢っ(‘;’)!って思いました。
私はなんでも大げさに落ち込むやつだったので、サラダ油ごときでもずーん(‘Д’)ってなってました。
自分で幹事をやってみたときに、どっちかはっきりしないのって迷惑かけてたんだなって気づきました。
来ないなら早く断るべきなんですよねー。
なんなら後から来れるって増えるならなんとかなるし(*´з`)
ありがとうココさん。この記事は気付きがとても多かったです。
曖昧な表現って日本人の礼儀みたいなところもある風潮を感じながら、はっきりしてくれたらいいのにと思う時と濁して欲しいと思う時の両方の私がいます。
あ~ごめん!「行けたら行く」を使う人、苦手だわ~。
断るのが申し訳なくてそういうのかなって思うけれど、結局来ないなら待っている時間が無駄になるじゃん、初めから断ってくれた方がうれしいのよね~。
殆どの人が経験しないこと。
良い経験をされましたね。
健常者の耳が遠くなった高齢者には、
ゆっくりと大きな口元とゼスチャーで話すと通じる。
考えると手話は国境も性別も年齢も関係ないコミュニケーションツールだと
気付かせてくれたココさんに感謝です。
匿名性の高いネットの世界と同じですね。
相手は自分の言っていることが聞こえない、何を言ってるかわからない、だから何を言っても良い。
暗闇から石を投げるような卑怯な連流の所業に腹がたつのと、ココさんが感じた憤りと同じものを感じました。
私も何度か障害のある子供たちの運動会の手助けに参加させてもらいました。
とても楽しそうにキラキラした笑顔でグラウンドを駆け回る子どもたちを見て、元気と健気さ、一生懸命さを再認識させてもらった思い出があります。
障害は不便であるが不幸ではない!
この言葉が全てを表しているのだと思います。
手話を習ってたんですね。
音声があにぶん、手振りで感情を示すので、
そういう意味では魅力的な言語ですね。
手話ができたら、音を出しちゃいけないところでも
会話ができるメリットがありますよね。
耳が聞こえないところを他でおぎなっているので、
運動神経がよかったり絵が上手など器用なんですね。
作ってもらったクッキーが面白いし、楽しくて素敵です。
私もこういうの作ってもらいたいなぁ…
でも残念な人はどこの世界にもいますね。
聞こえないかっらって、
平気で声に出して差別を口にする人がいるんですね。
たとえ聞こえなくても雰囲気で悪口は
分かる気がしるかた最悪ですね。
健常者がまじっていると気づいた時の
気まずい顔がが嫌ですね。
気まずくなる事は
誰の前でも、そもそも言うべきことじゃないです。
あるものでどうにかする発想もいいですね。
ドレッシングの分離した油を使うとはイイ手です。
はっきり言ってくれる友だちっていいですよね。関係性にもよるけど(笑)
『調味料担当の私がサラダ油をすっかり忘れていた。
ごめんごめんとこの世の終わりのごとくへこんでいたら』
↑この文クスッとなりました(*^_^*)
昔は幹事を任される事が多く、出欠の案内を数多くの人に出していました。
長いことやっていて思ったこと、それは「行けたら行きます」という人は殆ど来ない事が分かりました。
それからは「行けたら行きます」という人は来ないもんだと思うようになりました😀