苔がびっしり生えた仏像。
朽ちそうな鳥居。
静寂。
ひっそりとそこに佇んでいる。
何者が来ようが拒むことなく長い間、そこにいた。
そしてこれからもそこに居続けるのだろう。
癒しをもとめて。
50代という年齢のせいなのだろうか。
若くもないがまだまだな気持ち。
日々の生活をこなしながら、どこかにある焦燥感。
心が疲れた時。
自然に触れながら心穏やかに過ごせる時間を求めるようになった。
コロナで考える機会が増え価値観が少しずつ変わってきたのかもしれない。
最近では、地域の神社や観音さまをお参りをするようになった。
春に何気なく行った観音様のお寺がきっかけだった。



観音さまとは庶民の願いを聞いてくれる存在で性別のない仏だそうだ。
正直に言うと神様なのか仏様なのか、神社なのかお寺なのかも分からないような無知だった。
そして、調べるほどに無知であるからこそ行くべきなのだと知る。
人間の三毒と言われるもっとも克服するべき悪しき心。
三毒とは貪・瞋・痴という三つの煩悩
観音さまをお参りすることで消し去ってもらえるという。
貪とは 貪欲に際限なくあれこれ欲する気持ち
瞋とは 自分のプライドで相手に激しく怒る気持ち
痴とは 無知で愚かであること
欲だらけでイライラしやすくて無知な私。
三毒にまみれた自分。
それにしても三毒とはなんともうまく人間を表したものだ。
昔の人ってやっぱりすごい。
心のデトックス。
日本中にある観音巡りの霊場。
鎌倉から室町、江戸と庶民の間に広がっていった。
明治時代に神仏分離の命令が出た時、何か所も仏像や寺が排除された。
仏体を神体に変えて神社になった場所もあった。
理不尽な上からの命令で壊されては作られるを繰り返す。
昔も今も変わりない。
それが諸行無常なのかもしれない。
そんな歴史からかかなりの数の観音さまが神仏混合で神社に祭られている。
長い石段や、急こう配の山道を登りきる。
観音さまに会いに行くと言っても姿が見えず朽ち果てそうな小さな堂も数多くある。
鬱蒼と茂る木。
熊や天狗のいそうな山道。
今まで何回も通っていた場所にも、たくさんの神社や寺があって
それを守ってきた先人たちの努力があったことをはじめて知る。

神様なのか仏様なのかそんなことよりも
お参りすることで
自分自身と向き合う時間なのかもしれないと思った。
先日。
四国八十八か所を模した山を歩いた。
苦行ではなかったが、静寂に包まれた山の中で出会った喜怒哀楽のある石仏群。
不思議なパワーを感じる。



自分のどうしようもない欲や、自己中心的な怒り、そして無知。
私が私に気づき知りながら歩く道のり。
少しはいい人間になれるだろうか。
いい人間になりたい。
いい自分を手に入れたい。
そんな欲をいまだ捨てられない。
修行の足りない日々はまだまだ続く。
ココ
コメント
ま、宗教的な何かを求めずして、ただ静寂、自然に触れることだけでも(観音様巡りは)意義がある気がしますね。欲望、煩悩にせよ怒りにせよ、自省の心を涵養すれば静かに克服できます。
鳥天、超欲の塊で出来ているわ~悟らなくても、欲とか怒りとか、妬み嫉みにあんぽんたん、振り回されるのはチョイと困るけれど、うまく飼いならして生きていくのも良いかと!
若かりし頃は神社仏閣には全く興味がなかったのですが、50代になり俄然興味を持ち出したのは加齢によるものなのでしょうか?
脈々と受け継がれる日本人の生活様式と風習、文化の基盤となっているのは「信仰」なのだと思っています。
時代の変遷により、その有り様は変化しているのかもしれませんが、神や仏に対する気持ちは日本人として変わることは無いのだと思います。
八百万の神様。
日常生活のすぐそばに神様はいるんですよね。
こんにちは、貪・瞋・痴、いつまでたっても克服できそうもありませんが、
せめて、ときには思い出して反省したいものと思います。
人間って、欲の塊だと思う。
うちは昔からお寺の檀家。
でも私自身は無宗教。
地元には、神社が西と東にある。
無宗教でも、習わしというかやることはやってきた。
子供の七五三は、地元の神社で。
義父義母が亡くなれば、浄土宗の習わしで自宅にいる間線香を絶やすことなく四十九日を迎え、1年、3年の法要もした。
お正月には地元の家の子しかお手伝いが出来ない巫女さんにわが家の娘は毎年奉公している。
高校は浄土真宗の宗派の学校を卒業。でも、私は無宗教。
お寺や神社に関わりながらの生活。
良いことはいい、ん?と思うことは殆ど無いが、これが地元での生活なんだと自然に思っています。
正直なところ、生活に時間を追われ余裕が無い。
どっぷり浸からなくても、生活にメリハリが出て、一瞬立ち止まる事を教えてくれるのは宗教かも知れない。
僕もよくリフレッシュしに神社参りします。
神社のお参りは、神様の胎内に入り再び生まれ出ずる意味もあるとのことです。
お宮=子宮、参道=産道、鈴緒=へその緒が象徴しているのだとか。
そういうの信じちゃう僕は、神社参拝で神とつながりエネルギー的に浄化リフレッシュされた気分に勝手になっています😅
不思議なぐらい急に御朱印集めなど始める人がいます。
40代~50代になると…
昔は、興味を持たなかった人がです。
人間は歳とともに価値観が少しづつ変わっていくものだと思います。
コロナも価値観を変えた理由ですよね。
観音様は、性別の無い仏なんですね。
何となく女性という感じがします。
日本は神仏習合とかの関係で、寺と神社が曖昧な感じでもあります。
人間の3つの毒。つまり3つの欠点は、
観音さまへの御参りで、消して貰えるとはいいですね。
貪:あれこれ欲し出したらキリがないですね。貪欲の貪ですね。
瞋:これだけ知らない漢字ですね。全然、ピンと来ない漢字です。
自分のプライドで相手に激しく怒る気持ち。嫉妬のようなもの??
痴:無知で愚か…
123のうち3の罪の方が未だ軽いでしょうかね。
観音さまに目をつけたのは、目のつけどころが素敵ですね。
あらゆる仏像の中で優美です。
観音めぐりの霊場もあるんですね。
かなりの数の観音さまが神社にもあるとはビックリです。
神仏分離の命令で寺は寺。神社は神社になったせいで、
仏像が壊されるなんて酷いですね。勿体ないです。
自然の中にこんなに石仏があるのが驚きです。
なんか風雪に耐え、勇ましい感じがします。
だんだん歩いて、そして優美な観音さまに出合うと
心のデトックスにつながるんですね。
自分を見直す切っ掛けになるんですね・・・(*^-^*)。
心のデトックスって大事ですよね(^^)
最近忙しくて、ただでさえ三毒いっぱいなのに、ますます三毒まみれになってる。心のデトックス、必要だなぁと感じています。神社やお寺に行くって、良いかも。近くの小さな神社とかでも良いよね。
人間の三毒とは、ほんとに的確に人間を表していますね。昔の人ってすごい😊
もう、私なんか欲まみれでどうしようかぁ‥(笑)
欲がなくなるときは、きっとあの世が近くなるときなんだろうな。あの世に行くのが近くならなくても、欲を捨てされる時が来るんだろうかぁ‥?
それも、修行なんですかね。
50代、若くもないがまだまだな気持ち。メチャわかります。私、気持ちだけは新人なのに、身体だけが老いていってます🤭
インドの有名な僧は、人間の一番美しい姿は合掌をしている姿だと。
インドでは右手は清浄、左手は不浄とされていて、右手は仏、左手は自分を表し、
右手と左手を合わせることで仏と一体化する自分を表現するのだそうです。
「いただきます」「ごちそうさま」と自分を生かしてくださるすべてのいのちに手を合わせ、
生かされていることへの感謝の気持ちに頭が下がり、
ありがたいと思う心が自然に手を合わせる。
合掌の姿は美しいと。
以前兄から聞いた話、今また調べてみました^^
ココさんの感性好きだなぁ
(*´ω`*)
神様はいるのか、いないのか、ぼんやりした感じだし、無宗教な私だけど、
なんとなく近くのめちゃくちゃ小さい神社には通りかかる度にお参りしています。
おそらく・・私の場合、心の襟を正すには、何か目印がないとダメなのかも?と思っています。(ちょうどいい目印になってる・・神様、ごめん。。)
人生一生、修行中、勉強中、って気持ちも大切なことですね!