母方も父方も共に祖父は長生きだった。
幼い頃はよく分からなかった。
母方の祖父は何事にも厳しく怖かったようだが私にはいつも優しかった。
祖母は母がまだ小さい頃亡くなり後妻さんがいた。
私は大人になるまでその人が自分のおばあさんなのだと思っていた。
母の思春期に後妻として迎えられ育ててくれた人は数年で癌で亡くなり、
私の知るおばあさんはその次の後妻だった。
夏休みは毎年母と祖父の家に泊まりに行った。
母方は頭のいい家系でいとこ達は皆非常に優秀だった。
祖父は孫達の勉強にも厳しい人でみんなは祖父に通知表を持って遊びに来ていた。
孫たちが祖父の前に正座してひとしきり今学期の反省点を神妙な顔で話していた。
その後はお小遣いをもらってさっさと帰って行った。
私だけは通知表を持っていくこともなければ勉強について尋ねられることもない。
何泊も祖父の家に泊まっていた。
夜には祖父と五右衛門風呂にはいり祖父の布団で一緒に寝た。
母が帰ってもまだ泊まっていた。
何も期待されずただひたすらのんびりしていた。
おそらく出来の悪い子ほど可愛いの典型のような感じだったのだろう。
20代の時。
両親が離婚した後くらいに、あの家にいるおばあさんが2番目の後妻だということを知った。
そういえばと合点がいくことが多かった。
仏壇に遺影にしては若すぎる母にとっては実の母と2番目の母の2人の女の人の写真。
泊まりに行くたびにうっすらとだが感じていた母とおばあさんの違和感。
料理をしたりおしゃべりしたり、2人ともいつもハイテンションで話していた。
今思うと本当の母娘ではないからこそ無理して必要以上に仲良くしていたのだろう。
後妻のおばあさんが実はひどい浪費家だったと聞いた。
着道楽でタンスにはしつけ糸のついた着物が山のようにあった。
実家がどんどん居心地悪くなっていったようだ。
子供の頃泊まったあの家にいたおばあさんは質素なただのおばあさんだったのに 、着るわけでもない着物をなぜ買うのかも到底理解出来なかった。
私の中の優しいじいさんばあさんが一気に生々しい男と女になった。
母の苦悩を想像してみる。
誰にも言えずにさぞや恨んだのだろう。
まだ幼かった母を育てるために迎えられた継母。
料理が上手で皆が羨ましがるような弁当を作ってくれたらしい。
そんな継母は癌で母が二十歳の頃に亡くなった。
その時の母は看病とショックでご飯が食べられなくなったと言っていた。
もう後妻なんていらなかった。
家に居場所がなくなったと感じた。
母の過去と心の中をはじめて聞いた。
母は離婚した後1人で祖父を訪ねた。
土間で土下座をした母を祖父は最後まで許さなかった。
怒り狂い家にもあげてくれなかったらしい。おばあさんが本当の母ならばかばってくれたに違いない。古い家の土間で泣く母の姿。どれだけ恨み辛かっただろうと思う。
そんな祖父を母は一生許さないと言い、祖父を長い間憎み続けていた。
老いた父と娘。
祖父は99歳で亡くなった。
亡くなる前の数ヶ月。
母は毎日祖父の病院に通った。
バリカンで髪を刈ったりヒゲを剃り爪を切った。
煮物を作って持って行った。大好物のトマトと梅干し。大好物のジャムパン。
母が行くのを病室で毎日楽しみにしていた。
「100歳までがんばりなさい」
色々な話をしていた。
なんだかいきいきしていた。
手を握って思い出話をしながら大笑いする母。
そのうち持って行ってもあまり食べられなくなり、祖父は母に過去を謝ることが多くなった。
「悪かった。」
そればかり言うようになった。
怖くて身勝手だった祖父が誰が見ても弱々しくなっていくのを感じていた。
オムツは嫌だトイレに歩いて行きたいとずっと言っていた気丈な祖父が歩けなくなった。
仕方なくオムツをしたが、水分をとらなくなり便秘がひどくなる。
母は祖父のベットの脇でお腹をずっとさすった。
ある日。
オムツから溢れるほどの最後のうんこが出た。
綺麗に取り替えベットの上で祖父のお尻を洗ってあげた。
「良かったね。おなかぺたんこにひっこんだよ。」
「さっぱりしたよ。ありがとう。」
それを聞いた時にそろそろお別れの時が迫っていると悟ったらしい。
それから少しして祖父は死んだ。
老衰だった。
母の中で父親である祖父との長い長い憎しみの日々に決着がついたようだった。
本当にあの介護の日々は良かったと母は後から言った。
美しくなった過去。
母は祖父についてぽつりぽつりと思い出を1つ語る。
母が幼い頃、秋の田んぼで落ち穂拾いをしていると祖父は必ず言った。
「白鳥や雀の為に稲穂を少し残しておきなさい。人間だけが生きているわけじゃないんだから。」
畑の野菜も、木になっている実も渡り鳥や獣の冬の食糧の為に必ず残して置くように言う人だった。
「すごく優しかったのよ。」
親子の憎しみの日々もこんなふうに終わりを告げる日がくるのだろう。
穏やかに語る母を見て思う。
恨みや憎しみや執着。
どうしようもないふるまいだったり、あやまちだったり許せない気持ち。
私の色々な気持ちもいつかこんなふうに終わるときが来るのだろう。
ココ
コメント
たくさんのコメントありがとうございました。
みんな様々な葛藤を乗り越えながら、懸命に生きているんですよね。
介護ってしんどいばかりかと思ってたけど、救われたり決着つけたりできることもあるのね。
介護を全て外注した身としてはほんの少し後ろめたさもあるものなあ^^;
いろんな複雑な状況や複雑な気持ちが混ざりあって大人になって、老人になって、でもみんな最後に衰えながらも、気持ちは穏やかになっていく気がしました。自分はどうなんだろ。
あやまち、許せない気持ち、、、
親子ならではの、、ありますね
私の気持ちが整理されたのは、父が死んでしまった後でした
優しくて大好きだったはずなのになぁ
仏壇に向かって謝ってます^ ^
うちの父も、今は車椅子でないと移動できなくなり、「こんなに人の世話になるとは思わなかった」とすっかり気弱になりました。
今まで出来ていたことが出来なくなってくる。歳を取ると、人間は自分が大切な人に対して今までどう振るまってきたか、嫌がおうでもふりかえざるをえないものなのですね。
その時は、周りの人間はきっと許せるのだと思います。ココさんのお母さまのように☺️
親子の関係って、複雑ですよね・・
つい自分に置き換えてしまって、私の気持ちもいつかクリアになるのかな。
父のことは、自分の中でスッキリしたけど、母のことは無理かもって思ったり。
家族の分だけ、それぞれの人生がありますねー。。
素敵なお母さまですね。
過去と今と先の未来。過去はずっと繋がっている経験で消えない物だし財産だけれど、過去の感情は別。過去の自分でも苦痛な嫌なマイナス感情を処理できると、今や未来を邪魔しなくなって楽になります。誰でもそうできる力を持っていますが、なかなか…。
読みながら涙出ました
100家族あれば100個の事情があるよね~
祖父様の後妻の後妻、後妻の浪費、お母様の離婚、それを許さない祖父様
色々なことがあったのですね
僕にとっては想像もできない世界です。
お母様もツラかったですね
ココさんもツラかったですね
でも、いつか優しい気持ちになれるのですね
優しかったからこそ厳しかった祖父様
お母様は祖父様の看病が出来てよかったですね
老いて心が通じたのですね
美しい思い出ですね
幼い頃に亡くなってしまった祖父の思い出はあまりなく、とても物静かで躾に厳しい人だったとおぼえています。
でも、とても優しく手先が器用な人で、妹の髪の毛を丁寧にきれいに三編みに編んでいたことを昨日のように思い出します。
あまり思い出がないけれど、強烈に記憶に残っている祖父。
久しぶりに思い出しました。
私の父親の母親、つまり私の祖母は後妻でした。その事実を知ったのは小学生の頃でした。祖母は非常に良くしてくれましたが、それを知ってから私の態度はよそよそしくなったようです。その後、父親が祖母に接する時の様子を見て、なるほどと納得したことが何度もありました。子供ながらに複雑な心境でした。
少し、涙してしまいました。家族の複雑な関係に生まれる憎しみ、最終的には、どこかで許し、許されるそんな機会があってはじめて、乗り越えられるのかなと、自分の経験から感じます。
昔は後妻さんはどこでも当たり前の様にいた。
実家の隣のおばあさんが亡くなり、その妹が後妻さんとして迎えられたと聞いたことがある。
昔の人は、頑固で自分を曲げないというイメージ。
母の叔父叔母に子供が居ないから、そこに私ら夫婦が夫婦養子に入った。
義父義母は大正生まれ。
義父はとても頑固で仕事は見て覚えろタイプ。
実家の母の叔父叔母である私ら夫婦が夫婦養子に入った義父義母に
我が娘を庇うため食って掛かった事もしばしばあった。
旦那も苦労した。
戦争から帰ってきた義父は一代で観葉植物の卸業で成功したが、旦那がそれを廃業させてしまった。
時代に呑み込まれた。
義父義母を見送り、私ら4人家族となり、自分らだけの生活になった。
大正生まれの一世代違う高齢者と同居は私にとっては辛かった。初孫のうちの長女の幼少期には「泣かすな」と躾けが出来ずに私が怒られたものだった。
ココさんのお母様も実の母ならかばってくれただろうと言うのは、凄くよく分かる。
うちの母がかなりかばってくれたから。
口を開けば、「こんなだったら縁組なんかさせるんじゃなかった」と。
弱っていくおじい様から「悪かった」という言葉が聴けて、介護が出来て、お母さんにとって恨み苦しくて辛かった日々が少しでも救われたのではないかと思います。
野山の動物達の餌の事まで考えられていたおじい様は、本当は優しい人だったんだと思います。
ややこしい家族関係ですね。
本当に血のつながった祖母は、おかあさまが小さい時に亡くなってしまい、
写真でしか存在しないんですね。
お祖母さんだと思っていた人とはココさんは全く
血が繋がっていなかったんですね。
しかも2番目の後妻なので、おじいさまは3回結婚していますね。
くわしい事は後になるまで知らないのは、
何か言いにくい空気があるんですね。
でも、子供の頃見た仏壇に
2枚ある写真に違和感を感じてはいたんですね。
そしてお母さんと血の繋がらないおばあ様の間に
子供心にも違和感はあったんですね。
うちの母と祖母は時には喧嘩するけど、
本当の親子ならではの遠慮の無さから来ている事です。
必要以上に仲いいのも怪しいもんなんですね。
後妻のおばあさんが浪費家なのも
ストレスもあったのでしょう。
複雑な環境ですよね。
必要がなくても、ストレスを感じると、物が欲しくなるところは誰にでもあるでしょう。
1番目の継母の後は、おかあさまは内心、2番目の後妻さんは
いらないと思ってたでしょうね。
実家に身の置き場もないですよね。
離婚で心細いのに実家に拒絶され、おかあさんは
辛かった事でしょう。
おじいさん、お母さまには父である人を恨みに思ったでしょうね。
でも、お母さんは偉いですね。
恨みに思ってた過去もるのに、亡くなる前の
数ヶ月、病院に通い看護したんですね。
おじい様も過去を謝っていたので、冷たくした事、後悔してたんですね。
おじい様ぐらいの世代の人には離婚は許せない事だと思うと、
情状酌量の余地もあります。
介護の日があったことで、憎しみ続ける事が結果的に
なくなったのは良かったです。
おじいさんの立場で考えてみれば、昭和より前に
生まれた人には、許せない事なんだと思います。
冷たくされた時は辛くても、時間が経てば、お母さまも、そこんとこ理解できて
許せる気になった気がします。
今は、いい思い出を語っているんですね。
おじいさまは、白鳥や雀の為に稲穂を残すように
言っているので、本来は思いやりのある人ですね・・・。