ココからのブログ

昭和生まれの50代ココです。

鏡の法則。蹴りたいあの時の見栄っぱりな自分。



見栄を捨てれば楽になる。
でもなかなか捨てられず、
かっこつける自分がいる。

人目を気にする狭い世界のじぶん。



小さい時に数年間住んでいたあばら家。
マフラーに穴があいてバイクのような音のする父の車。
小学校から高校まで同じで錆だらけの自転車。
大声で話す酒飲みの父。



自分のそれまでの事を知らない都会に出てからは自由だ。
今まで恥ずかしかったことすべてがおいしい笑い話のネタになった。
同じ事で、同じ自分なのに置かれた環境で違う気持ちになるのだ。


飲み歩き友人と騒ぎ、自分勝手に笑って暮らすある日、父からの電話があった。
その電話を皮切りにあれよあれよという間にせっかく建てた家がなくなってしまい
私は家のない田舎に帰った。

いっとき精神的ダメージはかなりあったが離婚なんて珍しくもない。
その頃は、全く恥ずかしくはなかった。
安アパートで母と弟と3人。
毎日あいかわらずふざけながら笑って暮らした。

お金はなかったが仕事場は面白い人ばかり。
今思い返しても楽しいと感じて過ごしていた日々だ。

娘は母親に影響されやすい。

何年かたって母は年をとってきた。

月日が流れるにつれ少しづつ母の言動の細かな事が気になりだした。
それは本当に些細な事なのだ。
過去に持っていた失った物や、出来た筈の出来事への執着だった。



母の同僚や知人とのおしゃべりの話を聞く時。
旦那の愚痴だったり、庭の植木の話だったり、自宅の台所の話だったり
皆が当たり前に話す家や家族に関する話に敏感に反応していると感じた。

ただの会話でも受け取る側の気持ちがすさんでいるとただの愚痴は幸せ自慢に聞こえるのだろう。
一度手に入ったものを失うのは辛い。

もちろん周りは気づいてないだろうが私だけが気がついている負の感情。




何年かたってアパートから家賃の安い団地に引越しをした。



おそらく終の棲家になるであろう団地。
家を建てたときには団地に住むとは思っていなかったであろう母。
あきらめきれない想いからか母はなかなかその場所になじめなかった。

そんな母を見て考えた。
私ではなく父と苦労すればよかったのではないだろうか。
気持ちをぶつけて喧嘩しながら2人でなんとか乗り越えたのではないだろうか…

いや、無理だった。結局お金なんだ。宝くじさえ当たればすべて解決するのに。
いつもこの2つを行ったり来たり考えた。

ようやく理解した母の気持ち。



20代後半で私は結婚した。

結婚の際、夫の両親が団地に挨拶に来ることになった。
申し訳ないくらい狭い居間で頑張って高級寿司を頼んで、その時を待った。
到着するなり団地の居間はものすごい人口密度になった。


和やかな時間が流れる。
母の作った赤飯とお吸い物も並べた。
皆で食べながら、赤飯を褒めたり、部屋の植物の話になった。
母親同士でお互い少し気を遣い合いながら、料理の話や同じ世代の昔の話で盛り上がった。


優しい配慮のあるご両親。
喜ぶべき縁談のはずなのだ。


嫌な人も馬鹿にする人も1人もいなかったのに帰った後で、勝手に恥ずかしいと感じていた。
ちっぽけだったがあの失った家にご両親を招待したかったと心底感じた。

結婚がきっかけで、はじめてそんな事を感じる自分に戸惑った。

案外、というか、
かなり自分は見栄っ張りだった。

ありのままで生きるべき。




結婚は家と家だというが、結婚を通して幾通りもの我が家のやり方がある事を知った。
経済によって、価値観によって、育った環境によって違いがあって正解なんてないはずだ。

夫の親族で集まるとき。
私は我が家のやり方を見栄を張って少しづつ綺麗に盛って話した。

20代の頃 周りに面白おかしく話して聞かせた貧乏話とやばい親父の話。
友達を笑わせていたテッパンネタ話を封印したのだ。

今思うとそれは自分の過去も何もかもを否定することだった。

あんなに見栄をはって人並みなフリをする必要なんてなく
堂々と貧乏ネタを笑いに変える人間でいればよかった。



不満そうに見えた母の姿は、合わせ鏡の自分だった。

失ったものへの執着を捨てることで人は楽になる。

すでに自分はたくさん持っている。
そんな風に考えるほうが幸せだ。

これからはありのままで生きていけたらと思う。




    ココ