高校を卒業してから気持ちが自由になり恥ずかしいという感情をしばらく忘れていた。
それまでの自分は恥ずかしい気持ちだらけだった。
人目を気にする狭い世界のじぶん。
小さい時に住んでいたあばら家
マフラーに穴があいてバイクのような音のする父の車。
小学校から高校まで同じで錆だらけの自転車
大声で話す酒飲みの父
自分の事を知らない都会に出てからは自由だ。
今まで恥ずかしかったことすべてがおいしい笑い話のネタになった。
同じ事で、同じ自分なのに置かれた環境で違う気持ちになるのだ。
ある時
予告もなく親が離婚して家がなくなってしまった。
精神的ダメージはあったが離婚なんて珍しくもなく全く恥ずかしくはなかった。
どちらかというと悲しさや惨めさを感じないように笑い飛ばそうと必死だった。
母と弟と3人で毎日ふざけながら笑って暮らした。
今思い返しても楽しいと感じて過ごしていた日々だ。
娘は母親に影響されやすい。
月日が流れるにつれ少しづつ母の言動の細かな事が気になりだした。
それは本当に些細な事なのだが、失った物や出来た筈の出来事への執着だった。
例えば母の職場の同僚達との会話を聞く。
旦那の愚痴だったり、庭の植木の話だったり、自宅の台所や風呂の話だったり皆が当たり前に話す[家]に関する話しに敏感に反応してしまうのだ。
笑って会話をしていても引きつっている感じだ。もちろん周りは気づいてないだろう。
勝手にみじめだと思っているのだ。
家があって旦那がいる人。
家も旦那もない自分。
1度手に入った物を失うのは、持ったことがない状態の何倍も辛いものだろう。
数年後、私達は家賃の安い団地に引越しをした。
母はしばらくの間団地に馴染めずにいた。
おそらく終の棲家になるであろう団地の住人達と距離を縮めることができずにいたのだ。
あきらめきれない失った家への想いもあったはずだ。
その頃の私は良かれと思って今まで進んで来た歳月が、実は最初から間違いだったのではないかと時々思うようになっていた。
あのまま父と母を放っておけばよかったのかもしれない。
喧嘩しながら2人でなんとか乗り越えたのではないだろうか…
いや、無理だった。結局お金なんだ。宝くじさえ当たればすべて解決するのに。
いつもこの2つを行ったり来たり考えた。
ようやく理解した母の気持ち。
20代後半で私は結婚した。
結婚の際、夫の両親が団地に挨拶に来ることになった。
申し訳ないくらい狭い居間として使っているスペースで背伸びした高級寿司を頼んでその時を待った。
到着するなり団地の居間はものすごい人口密度になった。
和やかな時間がすぎた。
母の作った赤飯とお吸い物も並んだ。
皆で食べながら、赤飯を褒めたり、部屋の植物の話になったり、料理の話をしたりして時が流れた。
優しい配慮のあるご両親。
喜ぶべき縁談のはずなのだ。
嫌な人も馬鹿にする人も1人もいなかったのに帰った後で、勝手に恥ずかしいと感じていた。
ちっぽけであれ、あの失った家にご両親を招待したかった。
他人と比べても仕様のない事。
逆立ちしても追いつけない経済格差。
結婚してはじめてそんな事を恥ずかしいと感じる自分に気がついた。
案外、というかかなり自分は見栄っ張りだった。
ありのままで生きるべき。
いくら隠してもたぶん母には伝わっていたのかもしれない。
結婚は家と家だというが、結婚を通して幾通りもの我が家のやり方がある事を知った。
そしてどうしても世間と、自分の家との差を感じずにはいられなかった。
夫の親族で集まるたびにこっそり我が家のやり方を少しづつ綺麗に盛って話した。
20代の頃 周りに面白おかしく話して聞かせた貧乏とやばい親父のテッパンネタ話を封印したのだ。
それは自分の過去も何もかもを否定することだった。
あんなに見栄をはって普通なフリをする必要なんてなかったのに。
堂々と貧乏ネタを笑いに変える人間でいればよかった。
振り返ると自分が親を恥ずかしがっていたのだ。
家を守って欲しかったと無言の圧力を滲ませていたのかもしれない。
数年前に毒親と言う言葉を知った。
何度も母とぶつかる度に毒親という言葉がチラついた。いまだに何度もそんな言葉に無理に当てはめていいのかと考える。
案外目の前の親の姿は、合わせ鏡の自分だったのかも知れない。
これからはありのままで生きていけたらと思う。
ココ
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