ココからのブログ

昭和生まれの50代ココです。

くわえタバコで念仏となえる父

この頃思う。
人は大体何歳ころにものごころがつくのだろう。
大体の人は幼いころの記憶は何歳ころからあるんだろう?



私は幼いころの記憶があまりない。
自分の記憶として実感を持っている幼い頃の記憶がほとんどない。

自分の傍らにいつもいた猫のことも、何も言葉を話さなかった頃の記憶も
後から聞いたり写真を見たりして後付けされた記憶に感じる。

個人差があるのか分からないが小学校も中学校も人より少ない記憶しか残っておらず
そのせいで残っている記憶がより鮮明に感じるのだ。

きっと色々なことを次々忘れてしまったのかもしれない。

強烈な記憶


父は町の人からまじめで親切な人だといわれる反面、仕事が終わると昼間から酒を飲みそのまま帰宅しないことも珍しくなかった。            
母も非常に愛情深く責任感が強い反面、常に何かを憎んでいてどこか悲しげだった。


ものごころが付くというのが覚えている記憶のことをいうのなら、ものごころ付いた頃から二人の喧嘩を聞きながら育った。父は家族を悲しませる振る舞いが多かったのだ。


でも今思うと決して心から冷たい人間ではなかったように思う。

私の父は火葬場の火夫だった。
父の仕事場は悲しみの集まる場所だ。
愛する人が形を失う、最後にあきらめざるを得ない憎むべき場所。
父は小さな子供や若い方など亡くなると一緒に涙を流すことも多い非常に情の深い人間だった。

当時は高度経済成長の真っただ中、交通量も増えるに従い事故も多かった。
私の住む東北の田舎も例外ではなく事故の犠牲者は人間だけではなく動物もかなりの数だった。


普通に野良犬や野良猫がのんきに散歩している時代だけに無残にひかれた姿もよく見かけた。
道路の真ん中で後から来た車にも何度も轢かれ血だらけで横たわる。          


ほとんどの人が目を背けながら通り過ぎる中、父はその亡骸を車のトランクに入れて持ち帰った。
通り過ぎても戻ってまで拾って連れ帰るのだ。


放置することで何度もひかれ鳥につつかれ無残に形が変わっていくのが耐えられないようだった。
意味もなく命が失われることが辛いのだ。

火葬場の片隅の無縁仏の墓の隣の土に埋めて線香をあげてお経を唱えた。
今思うと保健所に連絡すればいいのだろうが父にそんな知識もなく必ず自分の手で弔っていた。 
一度父になぜこんなことをするのか聞いたことがある。
車に死んだ動物を乗せるのはあまり気持ちのいいものではなかった。

そんな時父はくわえたばこのままでこう答えた。

「動物も人間も同じだろう。こいつなんか悪いことしたが? みんな同じだ。」                        

父はきっと命には優しかった。
命の尊さ、もろさを感じすぎるゆえ死という日常を、その悲しみすべて吸収してしまう。
それを忘れたいがために毎日仕事が終わると酒で心を麻痺させていたのだろう。
思えば一番向いてない仕事をしていた。

家庭を壊すくらい酒を飲んでしまう人生を歩むならば優しさなんてかけらもない父でいて欲しかった。弱さからくる優しさなんて何の価値もないと私はずっと思っていた。

でもこの頃、父の面影をよく似た他人に見ることがあるとハッとする。
私も多分父に似ているのだと思う。
悲しみや色々なことから逃げたくなる。
多分父にはこのまま会わないだろう。

そして繰り返し憎しみと懐かしさが頭の中をめぐる。

               ココ