無意識だが人によく思われたい気持ちが強いほうだ。
人の役に立ちたい。
自分が無能であることを認めたくないのかもしれない。
からまわりしがちな行動。
職場でも、年末年始の夫の家への帰省でも、なにか学校行事なんかの集まりでも常に役に立ちたい気持ちが強くがむしゃらに動いていた。
このように書くと、さも働き者のようだがその行動の動機は不純だ。
役に立たない、使えないヤツと思われたくないのだ。
人の喜ぶ顔が好きで、無表情だったり不服そうに見えたりすると
「期待に応えられなかったのか…」
勝手に相手の気持ちを決めつけて自分にも相手にもがっかりするのだ。
結婚したばかりの頃は特にその傾向が強く空回りの連続だった。
バイト初日から
「なにかやることはないですか?」とグイグイきすぎてうざい新人みたいな感じだ。
なにもできないありのままがばれるのが怖くて
率先してなんでもやりますという姿勢を見せた。
友人がいつも言う。
私なんて面倒だし夫の親になんてどう思われてもいい。
「なんにもできないんです~」って言ってなにもしないで座ってるよ。
そのうち呆れて期待されなくなるよ。そのほうが楽だよ。
なんてうらやましい考え方。
その友人はなにもできないどころかなんでもそつなくこなすタイプだ。
そして親からめちゃくちゃ大切にされて育ったのだ。
きちんとした自己肯定感があるから必要以上に自分がどう思われるかを気にしていない。
気負いがない分きちんとご馳走なりおしゃべりなりその場の集まりを楽しめるし、素直に甘えることができる人は可愛がられるだろう。
必要ないことまでしている?
結婚して数年たった頃、夫の家に不幸があった。
今でこそ家族葬が主流だが当時は自宅に祭壇を作り行う家が多かった。
夜な夜なたくさんの人が故人を拝みに訪ねてくる。
田舎の葬式は食事の支度だったり女性はすることがたくさんだった。
私の母も弔問に来た。
後日その時の事を母と話していた時に何気なく言われた。
「いい嫁だと思われたくて、動き回っていたでしょう。」
「みっともないからあんまりでしゃばらないほうがいい。」
「よく思われようとしているのがみえみえ。あんな場面ではりきってるのはおかしいから」
それはきっと図星だったのかもしれない。
おしゃべりしながら平静を装いながら、内臓がギュンとするようなショックな気持ち。
私はそんな風に周りに映っていたのだろうか?
母の言葉は世の中の全ての感想なのだろうか?
あそこの嫁は気が利かないと思われたくなかった。
葬式ではりきる?
それにしてもひどい感想だとしばらく根にもっていた。
言葉は一生残るもの。
言葉はときに刃物だ。
人がどういう気持ちでいるかなんて本人にしか分からない。
物事に気がつく人もいれば、気がついていないふりをしている人もいる。
それぞれが持った感想もそれが正解かどうかはわからない。
母は気負いすぎている娘の今後の為、あえての忠告だったのだろう。
それでも吐かれた言葉は鋭いナイフのように刺さった。
今ならなんとなく理解ができる。
気負わないというのは案外難しい。
それでも頑張りすぎないことは親として子供に一番に伝えたいこと。
自然にありのままで生きる姿を見せる事が、親として必要だと最近やっとわかってきた。
人生後半戦。
私に誰もそこまで期待していない事に、いい加減気がついてマイペースでいこうと最近は思う。
ココ