ココからのブログ

昭和生まれの50代ココです。

目指すはおもしろいおとな。

自分が子供の頃は大人とは完全なる自由を手に入れた万能な存在だと思っていた。

下から眺める大人たち。

うらやましくて早く大人というものになりたい。



勉強はしなくていい。
夜遅くまで起きてテレビを見ていられる。
好きなことを言い、好きなだけお金を使えるのがおとなだと思っていた。


子供の頃、周りには色々な大人がいて毎日のようにひっきりなしに人が出入りする環境で育った。
私は小さい頃はあまり喋らない子供だった。
でも大人に囲まれ育ったので頭の中はこまっしゃくれて生意気なことを考えていたように思う。

当時。

景気のいい時代だったので家に来る大人達からしょっちゅうお金をもらっていた。
自分が大人になってみて、よその子供にお小遣いをあげる機会などほとんどない。
特別ケチというわけではない。
大人同士、お返しなどかえって気を遣うので、お年玉やお祝い以外はそんなことはしないのが最近の常識のように思う。

でも昭和は親戚じゃなくても何でもないときにお金をくれる人はけっこういた。

つくづく余裕のあるいい時代だったのだなと思う。

いつも5000円くれるおじさん。
いつも1000円くれるおじさん。
何かお使いで届けるとティッシュに包んだお金をポケットにつっこんでくるおばあさん。
いつも来るがなにもくれないおじさん。


あの頃に周りにいた大人を思い出すとき、必ずしもお金をくれる大人が好きだったわけではなかった。



お小遣いをいつもたくさんくれるくれるおじさん。
でも、そのおじさんが来た瞬間にこれから何時間いるのかとうんざりするような人もいた。
地獄の時間の幕開けを感じた。

たいてい偉そうに威張っていて、酔っ払っている。
こっちに来いとそばに呼ばれ、お酌させられお説教されるので、嫌で嫌でしょうがなかった。
私は勉強もスポーツもどっちも得意でなかったのでたいてい頑張らなきゃだめだぞと激励の言葉を言われるのだ。
本当にだめだめで注意しがいのある子供だっただろう。



最後、帰りがけにもらう5000円はその我慢の対価として与えられる報酬だった。
でも今なら案外おじさんが酔っぱらって繰り返し同じ話をしているのも面白く聞けるような気がする。
5000円貰えるならいくらでも聞ける。


そんなおじさんとは対照的で、子供から見ても羽振りがあまり良くない大人もいた。
何もくれなくてもめちゃくちゃおもしろいおじさんやおばさんは、大好きだった。


子供は自分の成長と共に、大人から吹き込まれたりした噂などでその人の色々なことが分かるようになっていく。
その人があまり褒められたような大人ではない事が分かっても不思議と嫌いにはならなかった。



考えてみると人として立派とか名誉や肩書は子供にとってはあまり関係ない。
とにかく人間としての面白さが重要だった。
人間の外側を覆う部分なんて子供にはあまり関係ないのだ。


じゃりン子チエ(31) (双葉文庫)

なつかしの愛すべきおとなたち。




親戚にいつも馬鹿なことを言っているおじさんがいた。


年頃になり声変りが始まったような従兄弟の男の子をつかまえて言う。


「そういえばおまえ、あそこに毛は生えてきたか?」
「1本か?何本だ?」

現代ならセクハラで抗議されるようなことを平気で言う。


1本目の毛が生えたら市役所に報告義務があるんだぞ。
申請すればお祝い金が5000円振り込まれるから忘れるな。
ここにいる大人はみんなやってる。


そんなどうしようもないことを毎回言って嫌がられていた。
そして周りはみんな笑っている。
鉄板ネタのえじきになった子もニヤニヤしながら聞いている。
半信半疑ながらほんとかな~と、どこかで思ったりする。


親戚の集まりがあると、おじさんが次はどんなくだらないことを言い出すかを心のどこかで期待したものだった。




その人が参加するとみんな否が応でも笑ってしまう。
不謹慎だが例えば葬式でも、そんな大人がいるとその場は子供にとって一気に面白いイベントに変わるのだ。

子供を笑わせその場を和ませる。
考えてみるとすごい才能だと今なら分かる。

きちんと挨拶しなさいだの、勉強は何位なんだと聞かれるよりはずっと意味があることだろう。
なんて面白い人なんだと思われるような大人になりたいと最近は特に思う。

大好きなウマおじさん。


忘れられない大人がいる。



親戚に農家のおじさんがいた。
いまはあまり見ないが苗字が書かれたトラックに乗っていて、一年中どろどろに土の付いた作業服を着ていた。

日焼けした真っ黒な顔はよく言えば舘ひろしに似ていた。

でも、ものすごく顔が長くて歯が真白なおじさんの事をわたしのなかではこっそり
ウマおじさんというあだ名で呼んでいた。そしてそのあだ名はぴったりだと母にも言われていた。

真面目で働き者のおじさんはあまり喋る人ではなかった。
それでもゆっくりと優しい口調で話すときは惚れ惚れするほどいい声だった。
一度誰かの結婚式で演歌を歌っていたがぜったい歌手になれたとみんなに言われていた。




私は20歳過ぎてから両親が離婚し、突然田舎に帰ることになり母と弟と実家を出て違う町で暮らしはじめた。

実家を出る時は、夜逃げ同然でウマおじさんのトラックで隣町に引越しをした。

以前暮らした実家には、時々ウマおじさんが遊びに来て父と仲良く話すこともあった。
静かで穏やかなおじさんのことは父も好きだったし、3人いる子供が全員息子だったおじさんは私をとても可愛がってくれた。
農家が暇な時期に夫婦で遊びに来て一日中過ごしご飯を食べて帰っていく。

「大事にしないなら娘をトラックに乗せてこのまま貰っていくぞ」
こんなことをよく父に言っていた。

おじさんがある日、母と暮らすアパートに急に訪ねてきた。
野菜を届けてくれてちょうど帰るところだったようだった。
仕事から帰った私が車を停めると駐車場で母と立ち話をしていた。

数年ぶりに会ったウマおじさんはやけに痩せていて以前にも増して馬に似ていた。
いつも通りの畑から直行した土のついた服を着ていた。
顔がはっきり見えないくらい薄暗くなった駐車場。
話す声はやはり惚れ惚れするほどいい声でその日はいつになくおしゃべりだった。

「こんどゆっくりうちに遊びに来い。待ってるから絶対だぞ。」



その日から一ヶ月も経たずにウマおじさんが入院したという知らせを聞いた。

末期の胃がんで病院に行った時はすでに余命いくばくもない状態だった。
我慢強さと頑丈な体だった自分への過信が仇となり、痩せて食べれなくなり病院に行った時にはもう手遅れとなっていたようだ。
やはり駐車場で見たときの痩せ方は病気からだった。




母と見舞いに行った。

おじさんの病院の部屋は個室だった。

あんなに頑丈で色が黒かったおじさんはパジャマを着てやけに色が白くなったなとおもった。

おじさんは私がウマおじさんとかげで読んでいるのをちゃんと分かっていた。
馬が好きなのでけっこう喜んでいて、呼び名を気に入っていたと母から聞いた。
そういえば小さい頃行ったおじさんの家にはまだ馬がいた。





「ウマおじさん会いにきたよ」


わざとそう呼んだ私を見ておじさんは痩せた体をベットから起こしてニヤリと笑った。

「来たなー」

ベットの脇のパイプ椅子に私を座らせじっと目を見ておじさんは言った。

「農家に嫁に行く気はないか?
食いっぱぐれないからいいぞ。
おじさんがいい婿を探してやる。
退院したら家に来い」



自分のことではなくずっとずっと私のことを心配して話していた。
そして母に向かってもずっと私に見合いをさせると言い続けていた。

「私の結婚式でも何か歌ってね。」

そんなことを言いながらなかなか帰らせないおじさんのそばにずっと座っていた。



見舞いに行った日から本当にあっという間。
憎い病気はわずかばかりの日にちしかこの世にウマおじさんを生かしてくれなかった。
誰も心の準備もできないくらいすぐにウマおじさんはあの世に呼ばれて帰っていった。


葬式でウマおじさんの友人が挨拶をした。


あなたは哲学が好きで星が好きでした。
とてもロマンチストな人だった。
あなたと夜中まで語り合った日のことは忘れません。


私が全く知らなかったいつも土だらけのウマおじさんの一面。
葬式の挨拶で初めて知ることとなった。



あの頃のウマおじさんの年に自分もそろそろ追いつく。


もうとっくに大人と言われる年になっているはずだが、どこかにあの頃のままの自分がいる。


あの頃出会った大人たちとの距離は到底縮めることなどできず未だ幼い自分のような気がする。
到底追いつくことなどできない。

出来る事なら大人になったわたしをウマおじさんに見せたかった。
ロマンチストだったウマおじさんともっと話したかったのに。






年を重ね大人として生きる今。
自由でも万能でもなかった大人の正体を知った。
大人になった私は何を残すことができるのだろう。

なんだか面白い大人。
なにかこころに残せるかっこいいおとな。

そんな大人になりたいとこのごろは思う。




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