新たに何かをスタートし、人間関係が増える。
その人ごとに人生があり
普段、屈託なく笑い、楽しく話す人にも、抱えきれないほどの悩みや苦しみがあることを知る。
人生後半の年齢になった。
自分に関して叶えたい願望などなく、残りの人生は、凪のようにただ穏やかに生きたいなど感じていた。
考えてみるとそれは自分が健康であるがゆえに、思える事。
今さっき、喉の渇きを覚え、椅子から立ち上がって飲み物を持ってきた。
今日は久しぶりの休日なので、あとから、ジムに行ってランニングや筋トレをするつもりだ。
めんどくせえなと愚痴を言いながら、運転して仕事に行ったり、
わすれものを取りに、階段を猛ダッシュで4階まで戻ったり、
何も考えず無我夢中で動ける毎日。
自分の体を、好きなことをするために、使える。
何も我慢せずに、やりたいことを好きなだけやる。
人は無いものねだりで、毎日何か不満を口にする。
当たり前すぎて、なにも考えずに暮らしているが、健康である日常とは、
何事にも代えがたい幸福なのだ。
数ヶ月前、私は津軽カタリストの練習会の門を、はじめてたたいた。
そこで、ある一冊の台本を読んだ。
小説とは違う、内容の台本だった。
そして、今まで知らなかった病気について、知ることとなった。
神様からの宿題。
いっくんは元気いっぱいの小学生。
走ることが好き。
ドッジボールが好き。
給食が好き。 いたずらも好き。
そしてなにより、友達、先生、学校が大好き。
冒頭、このように始まる台本、神様からの宿題。
兵庫県明石市に住む、山本育海さんと、お母さんが書かれたブログが元となり、リレーエッセイのような形で書籍化されている。
育海さんは、小学校3年生の夏に、筋肉が骨化する難病、
進行性骨化性繊維異形成症(FOP)と診断された。
この病気は、転んだり、ぶつかったりすることが刺激となり、体に新たな骨が出来てしまい、病気が急速に進行してしまう。
スポーツや、予防接種の針の刺激、歯の治療でさえも、その部分が骨になってしまう可能性があるため、医学が進歩して治療の薬ができるまで
『できることをあえてやらない』
という選択をし、25歳の今現在まで、病気と闘ってきた。
育海さんは、好きな野球も辞め、運動会のリレーに選ばれるほど足が速くとも、学校での体育もすべて見学し、修学旅行など、やりたいことをすべて我慢して学生時代を過ごした。
このような運命を、育海さんは、小学校で書いた詩の中で、
神様が出してくれた宿題、と表現し、毎日ブログを書くことで、病気の事を発信し続けてきた。
200万人に一人という確率の病気。
日本で80人ほど、だという。
我慢しているいっくんの笑顔が見たいと、学校の仲間による、いっくんおまもり隊が結成され、自然な形でサポートの輪が広がった。
明るく前向きな、育海さんの周りには、友達がいつも集まっていた。
その活動は今現在も明石市の高校生による、寄付活動などに受け継がれている。
(一年に一度の寄付の期間です。)
育海さん親子は、関西の方特有のテンポの良さで、言葉が非常に明るく、お互いにツッコミ合いながら会話をする様子が、動画を見ると伝わってくる。
にこやかで優しく、とても仲がいい。
それでも、お母さんの書いた文章にあった、
私は毎晩息子の寝顔を見ながら泣きました。
そんなある日、息子が言ったのです。
「お母さん、もう泣かなくていい。ぼく大丈夫だから。」
自分が辛いのに、お母さんの心を心配する優しさに驚き、子を持つ親として思わず涙した。
母は強しというが、挫けてなどいられないと、そこから笑顔を絶やさず頑張るお母さんのパワーは凄い。
2007年までは、難病指定もされていなかったFOP。
あまりにも患者数が少ないため、病気を理由に学校に行けなかったり、知識不足による教師の体罰で、進行させてしまったり、様々な問題があることを知り、この病気を多くの人に知ってもらうための活動を行ってきた育海さん親子。
IPS細胞の研究に、僕の細胞を使ってください。
20歳ころ、皮膚を切除することも、進行のリスクがあるにもかかわらず、病気の治療薬を作る研究に役立てて欲しいと提供した。
取材に対して、たとえ僕に間に合わなくても、小さい子に間に合って欲しいと、穏やかな口調で話す。
FOPだけでなく、すべての難病がない時代が来て欲しいと、語る育海さん。
なんて優しい青年なのだろう。
一日も早く治験が実を結ぶ日が来て欲しいと、願わずにはいられない。
ココ
津軽カタリストの、1冊の台本。
FOPについて、1人でも多くの人に知って欲しいと話す、代表の平田さん。
ご自身の娘さんも、この病気と闘っておられ、まずは、この病気について、知っていただくことから
とお話しされたので、書かせていただきました。
父親譲りの素晴らしい表現者です。