ココからのブログ

昭和生まれの50代ココです。

それでも帰れる実家が欲しい

いる?いらない?

実家はどこですか?
その質問が苦手だ。
こうい場合は親が住んでるところを言えばいいのだろうからたいていの場合は母の住むアパートがある街を言っておく。数年暮らした好きな町だが正直そこに自分のルーツはない。

実家。

辞書でひいてみた。

実家とは生まれ育った家
嫁にいったものが里帰りする家

うーん。

もはやわからない感覚。


当たり前のように交わされるセリフ。
「夏休みは実家に帰るの?」
「実家って楽だよね。」
「実家に行けばしまってある」
「実家って不便でさ」

にこにこしながら自分には分からない実家という感覚に話を合わせる。
ダラダラできる実家がうらやましい。
雑然としていて居心地がいいんだろうな。


生まれた育ったボロい家はすでに取り壊されている。

父が建てて、祖父と数年間だけ暮らした家は結局競売にかけられ他人の手に渡った。
数年前同級生の親の不幸があり久しぶりに[元実家]の前を通った。
「私の部屋に電気がついている!」



もうすでに私の部屋ではないんだけど不思議な気持ち。

夜中抜け出した風呂の窓もそのままだった。なんでここに入れないんだろうという激しい違和感。

「こんな大したことない家だったんだ」
「たかがこんな家1軒を守りきれなかったか」

父が植えた庭木はとうの昔に抜かれ、庭はスッキリ様変わりしていた。

思い出のコスモスも犬小屋も今は跡形もない。
結局家族全員では住めなかった家。

都会で暮らしていた時も、
「いつか帰れる家がある」
その思いが無意識に心の支えだったとなくなってしまってから知った。

でも全然帰る気はなかった。



20代の私は都会で自由を手に入れた。嫌な事が多かった田舎には二度と住まなくていい。そんなふうに思っていた。でもたまにうっとおしさを味わいに帰りたくなったのが家だった。
家を失った事で完全にバラバラで不安定な家族になってしまった。

家さえあればなんとかなったのだろうか?


きっと私は家への憧れが強すぎて、家を過大評価しているのだろう。

最近はなんか違う気がする。


本当はそれは間違いなのかもしれない。
世の中の普通の家族はそれがどこであれ団地やアパートでも仲良く暮らしてなんのこだわりもなく笑いケンカをして集まり過ごしている。

問題なのは家という箱じゃない。
家族みんなの気持ち。
そんなの分かってはいる。


ヘルパーをしていた時、親が高齢で一人暮らしそろそろホームにはいるなり暮らし方が変わるケースをたくさん見た。邪魔なのは家なのか親なのかという殺伐とした雰囲気のおやこが残念ながら沢山いた。


実家が空き家だったり、かえって負担と聞くとなんて贅沢な悩み。うらやましい。いらないならこの家をわしにくれと思いながら働いていた。

市原悦子の[家政婦は見た]さながらに。

自分も人生折り返し。


私の夫は私とは真逆だ。

家なんか寝れたらいい考え。

私達はいまのところ賃貸暮しだ。

上の子供達は家を出たし老後もコンパクトなミニマリスト生活を考えている。転勤のある限りずっと賃貸だしどうなるかはまだわからない。

夫の実家に帰るか?

この先どうするか?

問題は山積みなのだ。

何度か引っ越しをしたので、私の子供には生まれ育った家なんて感覚はなく折り重なって寝ていた狭い場所から自分の生活を手に入れた。
私達が家をもたなければ、ずっとこの先も実家なんてものは残念ながらない。

結局は必要ないのかもしれない。

夫婦だけになったら、不安にならないような安定した、決して老害と言われない親として、どんと構えて過ごそう。

いつでも帰っておいでと待っていてあげたらきっとそこが実家になる。


そんなふうにこの頃は思ったりする。

でも、いまだ叶わぬただの夢なのだ。
自分は家は別にいらない。

たまにしか帰らない実家がさ。

そんなセリフを人並みに言ってみたいだけなのだ。



ココ