ココからのブログ

昭和生まれの50代ココです。

コーダあいのうた。また会いたいやさしいコーダの男の子。

ゆびもじ





久しぶりに手話を勉強していた頃の友達から連絡があった。
好きそうな映画があると教えてくれた。

ゴーダ愛のうた

素晴らしい映画だった。


エール!(字幕版)

コーダ愛の歌の原作版











コーダとは、きこえない・きこえにくい親をもつ
きこえる子どものことをいう。
両親ともきこえなくても、どちらか一方の親だけがきこえなくても、親がろう者でも難聴者でも、きこえる子どもの事はコーダとされる。

1980年代にアメリカで生まれた言葉で
CODA,Children of Deaf Adult/sの頭文字だ。






ふと知り合いの1人のコーダの男の子を思い出した。


元気でいるだろうか…
必ず元気でいて欲しい。




私はその男の子を思い出すとき少しもどかしい気持ちになる。


手話とろう者との出会い

10年以上前手話を習っていた。

その頃はろうの友人達とほぼ毎週のように会っていた。
活動的な彼等の影響で様々な場所に一緒に行った。

彼らは一般的には障害者と呼ばれる人達だ。

聞こえないとは不便で悔しい事が多いだろう。
でも大人数の中で自分だけ聞こえているその状況では手話がまだちゃんとできない私のほうが圧倒的に不便だった。
周りと違うことで[障害のある違う人]と分けられていたこの人たちはいつもこんな気持ちだったのだろうなと想像できた。

でも彼等は馬鹿にする訳でもなく必死で手話を教え時には身振り手振りで会話を楽しんだ。

みんな積極的で知恵がありパワフルだった。

なんでも出来る彼等といると障害とは一体なんだろうと考えさせられた。


その仲間達といて私が活躍する場面はほとんどなかった。強いていえば居酒屋で

「今日は白子が入荷してないってよ」と皆に通訳して伝える時くらいだった。

その昔

ドラマ愛していると言ってくれの影響で若い女性を中心に手話ブームがあった。
その時はわずかだが手話通訳になる人も増え、手話を習ってそのままカップルになったケースもあったようだ。

あの時はみんなトヨエツに感謝したようだ。

でもいくら期待して若い女の子が手話を習いに来ても現実のろう者にトヨエツみたいな影のある静かなイケメンなどいない…

ろうの男性講師は自分達でそうも言っていた。

確かに・・・
物静かな人は少なかった。
実際の手話は物静かではなくて激しい。





とにかく不遇な幼少期を過ごした影響からか出会った仲間は皆、意地と根性が半端なくあった。



ろう者は和裁や理容師、活版印刷やクリーニング工場と手に職をつけるような仕事を勧められたそうだ。
しゃべらなくていい仕事がやはり多い。

見て覚える。
体で覚える。
真似して技術を習得する。
そうやって育ったからか手先が器用で記憶力がいい。
床の振動を感じながらカウントをとってダンスが出来る人もいた。
日本舞踊を踊れる人もいた。


皆で卓球をやった時。
私があまりに下手なので寄ってたかって、体の使い方がなっていない下手くそがと怒られてばかりだ。
とてもじゃなく見てられなくて身ぶり手振りで教えたくなってしまうらしい

運動神経が皆無な私に二人羽織のように、体の使い方を教えてくれた。

ファンキーなろうの夫婦とその息子。



たくさんのろうの仲間が出来たがその中でもある一組の夫婦と出かける事が多かった。
二人とも聞こえないろうの夫婦だった。うちの長女と同い年の息子のケン。


コーダの彼は当然だが親と手話で会話する。生まれてからずっと手話で育てられていた。
でもケンは正確な手話と言うよりは、家族内のハンドサインという感じで感覚だけで会話をしていた。

家庭内だけで使うサイン。


ケンはとにかくいたずらが好きだった。

コテージの入口ドアの前にこっそりカメムシを集めて夜中のうちに撒き、朝に誰かが爽やかな空気を吸いに1歩踏み出すたびに毎回カメムシがつぶれひどいことになるのを影から見て笑う。


コテージの吹き抜けの2階の手すりから下で爆睡している人の顔をめがけてこっそり豆を投げたりした。
寝ている人の顔に油性マジックで落書きもした。


うちの子供達もケンの影響で子分になって喜んでいたずらに燃えたがケンに受けた影響はなにより行動力だった。親もあまり子ども扱いせずに容赦ないのだが、ケンもなんでもどんどんやってみる。
とにかく動きが素晴らしい。

火を起こす。
ホタテの殻をむく。
バイキングに行ってみんなの食べたものをさげる。
人数分の水を頼んだり注文を言いに行く。

何をするにも誰にも言われることなく体が動いていた。
ついでに人の分まで涼しい顔で黙ってやっているのだ。


たぶん幼い頃からそうやって親に甘えず自然に動いてきたのだろう。
大人同様にやらざるを得なかったと言ってもいいのかもしれない。



そしてケンは我が家の末っ子、まだ小さかった次女の髪にそっと花をつけてくれるような優しい面もある素敵な男の子だった。

月日は流れた。




数年後、高校生になったケンは不登校になり家にいることが多くなった。完全に引きこもっていた。
遊びに行くと子供同士でいる時も、私に対しても普通に明るかった。
でも思春期の苦悩を誰にも伝える事ができずにいたのかもしれない。




最近はテレビに字幕がつき手話を使っていてもおかしな目で見られる事もなくなった。
障害者に合理的配慮と言われ様々な生活の場所に手話通訳や文字表記が増えた。



でも実際はまだまだ不便でろう者は子供に頼らざるを得ない場面も多いように思う。




ましてや不登校の子供の親がろう者だと先生も苦労するだろう。
当然だが当事者である子供に通訳は頼めず三者面談もできない。
手話通訳はいつでも無料で依頼する権利があるのだが、こんな風に誰と誰の会話を通訳していいか微妙な場合なかなか難しいのだろう。


子供は言いたいことがあってもたぶん親にさえ伝えきれていないのかもしれない。

うるせーババアもハンドサインだ。

誰が悪い訳でもなくて、皆一生懸命生きているのに出口が見つからない。

そんな感じが続いていたようだったがただ見守ることしかできなかった。

大人になったケンに会いたい。

数年後の年賀状でケンは関東にいて元気だと書かれていた。
とてもうれしかった。
ケンはケンの人生を歩み始めている。

耳の聞こえない両親の元ずっと親のために頑張ってきたルビー。
互いに支え合う家族。
やりたいことに向かって自分の人生を歩きだす。

コーダ愛のうたの予告を見ていたらそんなコーダのケンを思い出す。

同時にあの頃。

とても繊細で優しい彼の心を聞いてあげる方法はなかっただろうか・・・
今さらながらそんなことを 考えた。

そしてたまらなくケンに会いたくなった。


ココ