なんで私が席を譲らなきゃと思わなきゃいいのだ。
筋トレなんて普段はどうせ出来ないんだからいい機会だと思って
かっこつけて立ちながら体幹を鍛えれば一石二鳥。
一瞬でおばあさんになったわけでもなく。
去年は豪雪だった。
大雪の夕方。
2時間待ちの混雑した皮膚科で筋トレも兼ねてつま先立ちで本を読んでいた。
混雑した待合室は密を避けて少ない椅子で皆が待ちくたびれうなだれている。
ドアが開き、頭に雪を乗せたよぼよぼのおばあさんが小さい歩幅でゆっくりゆっくり入ってきた。
寒かっただろう。
頼む。誰か椅子を譲れ
大股を開いてスマホを見ている若い衆を
自分の持てるせいいっぱいの眼力で見てからおばあさんを見た。
すごいジロジロこっちを見てくるつま先立ちのキモイおばさんでしかなかったようだ。
伝わらないか…
心配していたら親切な女性が席を詰めてくれた。
「おばあちゃんこっち座ってどうぞどうぞ。」
ベンチタイプの椅子に座る太った体を細くしてニコニコと手招きする。
自分が譲って老人に恐縮させないように、✖と書かれた椅子側にはみ出しているが
あえて立たずに待っていた。
反対側のお父さんも心なしか体を細くして間を開けて手招きする。
病院内は立っている人も多く自分達が立つ事でかえって混雑させないようにとの工夫だろう。
2人の間に申し訳なさそうに腰をおろしたおばあさんが言う。
「皆さんにご迷惑かけてばかりですみません。こんな年になってもいくら待ってもお迎えが来ないので仕方なく生きてました。」
やけに重い言葉だった…
そこから優しい2人とおばあさんの会話が始まった。
「そんな事言うもんじゃないですよ。何歳になりました?」
聞けば97歳だという。
なだめるような優しい会話に聞き耳をたてながら、
ふと以前訪問介護で毎週会っていたおばあさんを思い出した。
忙しく働いていた名残。
少し認知症もあったその方は普段は物腰が柔らかくいつも恐縮していた。
違う県からお嫁に来て、たくさんお子さんを育て夫に先立たれ一人で暮していた。
娘さんが毎日様子を見に来ていたがヘルパーも毎日朝と夕方に訪問していた。
簡単な朝食の支度をしながら台所を見ていつも思った。
誰にだって若かりし日々。
家族の歴史があるんだろうな。
年季の入った巨大な鍋やまな板。
たくさんの食器。
底が焦げた蒸し器。昔使った懐かしいキャラクターのついたアルミやプラスチックのお弁当箱。
子供や孫が使ったであろうコップやお箸。
今では娘さんが誰か分からなくなって他人行儀の挨拶をしたり、ご飯を鉛筆で食べたりしているその方の、母親として生きた数十年の歴史がそこにはあった。
「早く私にもお迎えが来ればいいんですが」
ボケていない時にはいつもそんな事を言うその方も夕方になると様子が変わる。
「早く家に帰ってご飯の支度をしなければ」
夕方の気配と共にソワソワが止まらなくなる。
その方の心の底に残っている母親だった気持ち。子供や夫が帰ってくる。
ご飯を作らなければならないのに一体私は何をしているんだ。ここはどこなんだろう?帰らなくては。
いくらここが家だと伝えてもなだめても落ち着かない焦る気持ち。
何年も何年もそうやってお腹を空かせた家族の帰りを、台所でせわしなく料理をしながら待っていたのだろう。
人は目覚めて急に年をとるわけではなくて、いつの間にか出来ない事が増えていくのだとやっと最近少し分かってきた。
他人事ではなかった。
母と紅葉を見に行った時。
駐車場から絶景スポットまでの道のりは坂道だった。
せわしなく歩く私に母は
「もう少しゆっくり歩いて」
と言った。
自分の親だけはなんとなく老人だと気づかなかった。
いつまでもおっちょこちょいでせわしない母親だと思っていたようだ。
ひとごとではない。
みんないつかは年をとるのに。
待合室の会話は続いていた。
優しい2人との会話のおかげで少しおばあさんも笑顔になってきた。
自分の子供達も今はまだ分からないだろう。
10代と20代。
世界は自分中心にまわっていた。
ただ教えたい事はひとつ。
混雑した待合室。
電車やバス。
激務の帰り道じゃない限り
もしもそんなに疲れていなければ。
体幹を鍛える為に
座らずにベンチは開けておいて欲しい。
ジムに行くより簡単な筋トレの時間。
ココ
コメント
Nick Ollieさん
お年寄りの歴史を感じるたびに年を重ねるってことを
考えさせられました。
いろんな食器とかお鍋とかに歴史が宿ってる。なんか生き物みたい。
年を取るって、なんか時々すごく怖いなーと思うことがある。
こんばんは
ココさんがつま先立ちで体幹を鍛えながら、強い眼力で若者を見てる図を想像してクスクス笑って読みました^ ^
私もわかものなので、笑、筋トレがてら、席はあけておこうと思います♪
先日、息子の顔も忘れたけれど、ありがとうを忘れない母親の介護を発信されるYoutuberの動画を見ました。
迷惑をかけたくなくという思いを抱きながらも、年を重ねれば少なからず手助けを必要とすることも増えてくる。
色んなことを忘れても、残る習慣や心の癖。いつまでも感謝を忘れないよう、今から習慣づけたいなと思います。
97歳で誰の付き添いもなく自力で病院に来られるのはすごいと思いました。
訪問看護のおばあさん、必死に子育てしてきて、気がついたら皆巣立ってて。彼女にとっては大変な時間だったけど、その大変な時が一番幸せだったのかな。
子育て期間が終わっても、自分の役割、幸せを感じられるような社会になってくれたら、ボケる人も減っていくのかな、なんて思ったりしました。
いつか、私も今を懐かしく思い出す。
後悔ないように生きたいです😊
自分の親は、毎日顔を合わせているので、年寄という実感はない。
実年齢は私の歳+23歳。
充分に後期高齢者。
ココさんが病院で大股開いてスマホをいじっている若い衆を睨み倒しているココさんの顔を想像してしまった(笑)
きっと傍から見ると凄い形相だったんだろうなぁ💦
世間話でいう「順番」。
ボケるのも、歳を取るのも、あの世へ行くのも順番。
最近高齢者と同居しない若者。
商売のあと取りの長男の子供は大抵同居。そんな孫は年寄りの扱いは上手いが、それ以外は自分たちがいずれなる高齢者を否定するかの様に「ババー!ジジィー!」と他所様の高齢者に怒号する。
もっと高齢者に優しい社会であってほしいですね。
譲って気まずい思いをした話も聞くし、面倒なのでガラガラじゃない限り座らないんだけれどね、自分より弱そうな人に手助けするのが普通の世の中だと良いねぇ。最近は逆の人が多すぎる気がする。
いろいろ考えてしまう記事でした。
一緒に年取っていくものだから、
とくに親が歳をとることには鈍感になっていますかね💦
僕も出来ないことが少しずつ増えているところ、、、
まだ早いかな😅
こんばんは、97歳のおばあさん、元気ですね。
ココさんやおばさんたちの気持ちがうれしいですが、若者にもわかってもらいたいのですね。少し経験や苦労がたりないのかな。
ひとりで暮らす高齢の方は寂しいでしょうね。
旦那さんがいたら食事や洗濯なども当然しなくてはいけません。
なにかやる事があると前向きな思考になりそうです。
母は父の死後、しばらくひとりでいました。
地域のお世話をしていて生き生きとしていました。
私の生徒さんにもご高齢の方がいますけど
お孫さん皆さんやさしいとニコニコと話されます。
家庭環境も大きいのかもしれませんね^^
関西ではおばちゃんの方が知らんぷりしてるケースが多いかも 笑
お腹が大きかった時、松葉杖の人が乗ってきたので、
妊婦の私のほうが、まだ踏ん張りきくかと思って席ゆずったら、
私のお腹を見て「え…でも・・・」って躊躇されて、私の隣に座ってた若い男の子がめっちゃ嫌な顔しつつ、席をあけてくれました
97歳…後3年で100歳ですね。
お迎えがきたら勿体ないです。長生きすればいいと思います。
第一、迷惑かけたって別にいいじゃないかと思います。
お互い助け合える社会がいいと思います。
訪問介護のおばあさん。
お母さんだった時代があるんですね。
「早く家にかえってご飯の支度をしなければ・・・」と言い出すんですね。
もう何年も家族の世話をみてきて、皆の為に頑張ったんですね。
本当に急に歳取るわけではないですね。
目の前にいる人にも若い時も赤ちゃんの時も小学生の時も思春期もあります。
最初から歳とっている時からしか知らないのでピンと来ないですけどね。
また、過去に皆の面倒をみて、食事の支度をし活躍してた事は、食器やまな板や
キャラの弁当箱からも伺えますね。
私もそうです。
自分の親が客観的には老人だという事実に気付かないところあります。
いつも自分の面倒をシッカリ見ている印象のせいかもしれません。
周りの面倒をてきぱき見るおばさんなのです。私の頭の中で…
だから、坂道を「もう少しゆっくり歩いて」と言われ、
ふと、ココさんのお母様も歳取った事に気付いたんですね。
10代20代の時は、年齢いった人が身体全体に重荷を背負っている事は分からないかもしれませんね。
歳とると若い時に辛くない事が極度に辛い事はあるような気がします。
身体全体に重荷を背負う感じです。
若い時は、あまり疲れなかったけど、現在は何かと
疲れが激しいので、どこかに出かける事を何かと躊躇しがちです。
後に響く事を考えてしまいます。
家から5分ぐらいのコンビニも行くのを躊躇しちゃうほど、妙に疲れっぽい時期もあります。
最近は酷くないけど、すぐ疲れ寝込んでばかりいる事が歳取ってから増えたのです。
もし余力があるなら大幹を鍛えるためにベンチをあけておくのも必要ですね。
ジムに新たに行かなくても、日常生活で身体を鍛えられるんですね。
昨今では、電車で立っていると席を譲られる身分・風体になったようです・・orz
優しい2人とおばあさんの会話を聞いて、大股を開いてスマホを見ている若い衆は、何か感じるものがあったかな?
97歳なのにおだやかに会話が出来るというのは素晴らしい
母は92歳、耳が遠いので会話が思うように出来ません。
出来ないことが増えるとあきらめてしまう。そんな気がします。
歳をとると人としての機能が低下してくる。
そんな僕は老眼が悪化してきました^^;
うちの嫁さんは電車に乗ると真っ先に座ります。
そしてお年寄りが来るとすぐに席を譲ります。
彼女曰く「譲らない人が座るより譲る人が座った方がいいでしょ」と言うのです。
それも一理あるなと思いました😀
自分が子供の頃に見上げていた親。
もう自分がその時の親の年齢をはるかに超えてしまっていて、親はさらに年齢を重ねている。
当たり前なんですが、時間は無情にも流れていき眼の前の風景はおろか、人々の内外面も変えていきますよね。
新しい街並みが出来ても、そこを歩く自分はどんどん年を取っていく。
高齢になると生きているだけで申し訳ない気分になるのでしょうか?
超高齢化社会となってしまった日本、高齢者はどんどん増えていくのとは逆に、どんどん高齢者が住みにくく暮らしにくい世の中になっているように思えてなりません。
人生100年時代とはいいますが、60歳で定年を迎えた後にマトモに働ける場所もなく、貰えるお給料や年金がどんどん目減りしていく中で、明るい将来像を描いた老後が想像できません。
せめてお金がかからないよう、無駄に元気で健康でいられるように気をつけなければ!
と肝に銘じている毎日です。