私について

我が子がちょっぴりうらましい歪んだ私の心

私について

自分が親になり子育てをしながら時々嫌だったことを思い出してもやもやしてしまう。
嫌だった過去に一気に気持ちが戻ってしまいしばらく心の狭い自分との戦いをする。

されて嫌だったことをしないようにという子育てもある意味ゆがんだ気持ちがどこかにあるのかもしれない。どこかに自分がしてもらいたかったように子育てをしようというリベンジと自己満足とエゴがある。

もちろん子供は子供の人格があるのだから感じ方からすべて違うのは当たり前のことだ。

そして自分の中にいる幼い頃の自分が、どこか自分の子供を羨ましそうに見ている。

古い自転車。



つまらないことを思い出した。

私は小学生から高校生まで同じ自転車を乗っていた。子供の頃のサイズのままだったので高校生には小さく、自転車はサビだらけ。自転車置き場にピカピカの自転車ばかりが並ぶ中ひっそりとはじっこに停めていた。

今思うと高校の頃我が家はそれほどまで貧しくはなかったはずだ。
私は幼い頃から何本も傘をだめにし、ランドセルもかばんも与えられたものはすぐにぼろぼろにしてしまう子供だった。
それほど活発でなかったくせに物を壊したりなくしたりして自転車も盗まれたこともあった。
おそらく親にしてみればどうせ自転車を買ってあげても壊したりなくしたりするのではという気持ちと体が小さかったからそのままでいいだろうという考えだったのだろう。



高校1年生の時。

3年生のヤンキーな先輩2人が地下道の入り口に停めた私の自転車を盗む現場を目の前で見た。
二人乗りして大笑いしながら
「汚ねえ自転車だな。こんなの乗ってるやついるんだ」
「ピエロみたい」
「ギャハハ」

本当に目の前での犯行だった。
カギを蹴って壊し盗む現場を固まったままじっくり見物してしまった。

笑い声と共に地下道に消えていった私の自転車を後ろから見ていた。

「ああやって壊せるんだ…」

自転車を目の前で盗まれた悔しさよりも、この自転車の持ち主が自分だと思われるのが恥ずかしかった。体が固まってしまい追いかけることもできなかった。


私のボロボロの自転車は、その後駅の近くに乗り捨てられていた。
しばらくするとまた学校の近くに乗り捨てられ、まるで乗り捨て自由のレンタサイクルのような使われ方をした。


それ以来学校への往復、私はいつも歩いていた。やさしい友達が自転車をひいて一緒に歩いてくれた。探せばどこかにあるはずの可哀想なボロボロの自転車の存在を無視してしばらく過ごしていた。


あまりにもいつも歩いているからか、ある日近所の年上のお兄さんが車で通りかかり乗せてくれた。
いっつも歩いてるな乗せていくぞ。

その人はとても優しい人で何度か乗せてもらい、必ず家の少し前で降ろしてくれた。

ある日。

家に帰ると両親が鬼の形相で待っていた。
お兄さんの車に私が乗っていたと、お節介で噂好きな誰かに聞いたようだった。
お兄さんは近所のイケメンで、

「お宅の娘さんなかなかやるわね」「助手席にいたわよ」
そんな風に言われたようだ。




近所の人に馬鹿にされた。
高校生のぶんざいで。
ふしだらで恥さらしな娘。
そんなことだけは覚えるのが早いのか。誰に似たんだ。
早く卒業してとっとと家を出たら好きなだけ男と付き合うがいい。
私がいることで 町中から笑いものになっているような事を言われた。

随分と大げさな事になっていた。

涙が次から次へとこぼれた。


あの日高校生の私は傷ついた。
信じられないくらい泣きながら親を憎んで歩いた日のことはハッキリ覚えている。
穏やかに気持ちを聞いてくれたらなにもかも話すことも出来ただろう。

自転車を盗まれたみじめさなんて親には言えなかったし、ただいつも歩いているのをついでに乗せてくれただけのお兄さんを悪く言われたことも悲しかった。



その後ボロボロの自転車を探し回り家に連れて帰った。
申し訳ない気持ちになりながら高校卒業までその自転車を乗った。
案外子供は本当の心の中なんて親には伝えられてないものだ。
そして親も軽く放った言葉で傷つけていることもある。



そんな私が親になった。





子供を育てていく上で、母にはたくさん助けられた。
なるほどそうかというアドバイスをたくさんもらった。感謝している。
ほいほいと男の人の車になんて娘が乗ったらどんなに心配な気持ちになるかも理解できた。
孫はかわいいのだろう。今回もこんな事を言われた。


「高校生になったら自転車は新しいの買ってあげなよ。ボロボロだと恥ずかしくて可哀想でしょ」
きっと過去の事なんてすっかり忘れているのだろう。
あんなに恥ずかしかった自転車に乗っていた娘の事なんて覚えていないのだろうか・・・

自分の心の底に溜まった澱が浮かんで揺れるのを感じていた。

そしてリベンジのように自転車を娘と買いに行った。
兄のまだそんなに古くない自転車を乗るつもりでいた娘は思いがけず喜びながら選んでいた。

もういい加減、過去なんて忘れてしまえと自分に呆れながらもそんなどす黒い感情も含めての自分ごと認めてあげようと思う。
人を傷つけたことのない人なんてこの世にはいないのかもしれない。

           ココ















コメント

  1. ココ より:

    そうなんですよね😊
    ある意味やりたいことをやらせてもらえるのが子育てですもんね。
    楽しむって大事ですよね。
    子供が色々経験していくのって楽しいですよね😊

  2. ココ より:

    両方の思い出。そうですね昔の親ってそんなに今ほど配慮するでもなく、言いたいことを言ってましたよね。
    それで鍛えられた部分もあったんでしょうね。
    でも自分は気を付けたいなって私も思います😊

  3. ひでぴん より:

    僕も両方の苦い思い出があります😓
    言った側、言われた側、その時の感情の勢いもあったり…
    何気なく発した言葉も相手のトラウマになるようなこともありますしね。
    気をつけたいものです。

  4. たき子 より:

    されたことをしてしまう子育て、されたことをしないようにしようとする子育て。
    いずれにせよ人は自分のしたいようにしかしない生き物かなと思ってます。
    それが良い悪いではなくそういうものかと。
    私自身でいうと子育てだけは自分のやりたいようにやる!と決めてそれを一つ一つ実行していくのが楽しかったですねえ。

  5. ココ より:

    鳥天さんへ
    色々思い出すのもしんどかったりするからすまぬ😣
    苦労が分かる部分と、逆になぜ?って思う部分にちょっと苦しんだり・・・
    考えちゃったがこんな時こそ食と散歩よね😊

  6. ココ より:

    スティンガー五郎さんへ
    そうなんですよね。
    言葉を発してるほうにしてみればそんなに意味がなかったりする事に傷ついてたりするんですよね。
    痛みもしつこさもすべて自分なんだと思って付き合っています。

  7. 鳥天 より:

    ビンボー辛いんだよね~色々思い出したわ。
    子供が4人もいたから、仕事が忙しいから、両親が不仲だからなどなど理由を挙げて仕方なかったんだと忘れ去ったけれどね。
    子供に同じ悲しい思いさせないようにって思って子育てしたよねー。

  8. スティンガー五郎 より:

    親は子供の心が理解できず、子供は親の思いがわからなかったりしますよね。
    私も子供の頃に同じような経験があります。

    親にしたらとても小さな出来事なのかもしれませんが、子供にとったら悩みのタネになってしまうようなこと。
    ちょっとしたボタンの掛け違いが生んだ心の隙間。

    時間がちゃんと埋めてくれたりしますが、その時の痛みは今でも残りますよね。