父は身勝手で生活全般だらしなかった。
一緒にいると恥ずかしい思いをすることが多かった。
そんな父でよかったと思うことがある。
私自身にだらしなさとデリカシーのなさへの耐性がかなりあるのだ。
恥ずかしい…
子どもの頃。
父が普段じぶんだけ飲み歩いてばかりいるので、ほんとに時々だが罪滅ぼしで外食に行くことがあった。
父は小綺麗な料理屋やとんかつ屋みたいな店にも裸足にサンダルばき、
ギャンブラーの証の赤ペンの染みがついたジャンパーでズカズカと店内にすすむ。
たいていの場所でなんとなく場違いだ。
びっくりした顔でチラッと見られる事が多かった。
声もムダにでかくて目立つのだ。
自分が食べ終わると、堂々とゲップをしながら支払いを済ませさっさと店を出てしまう。
飽きちゃうのだ。
ここまで聞いただけで普通の人は眉をひそめるような下品な父。
普通のお父さんなら、子供が食べ終わるまで席で待つだろう・・・
自分勝手の見本のような父。
「カンゴウカイに行くぞ」
唐突な父の一言で、突然花見に行くことになった。
城下町。
美しいお城と桜。
東北屈指の見事な桜。
出店も多く賑わう公園。
観桜会のことをそう言った。
凄い人混みの中、広い公園内をただただ歩く。
父は後ろを妻と娘がついてきているか確かめる訳でもなくどんどん歩く。
人にペースを合わせることもなく、それに小走りでついてまわる母と娘。
父はたぶん桜など見ていない。
ゆっくり花見をするというより
[花見の公園をおんなこどもと共に歩く]
というノルマを急いでこなしているようなものだ。
それでもせっかく来たのだからとなにか1つおもちゃを買ってもらえることになった。
忘れもしない。
赤くて目がキョロキョロ動くプラスチックの犬だか鹿だかを買ってもらった。
頭に輪っかがついていて引っ張ると中に収納されたひもがびょーんと伸びるものだった。
そのおもちゃは一目見た時から出店の店先で輝いて見えた。
子供にとってのカンゴウカイは、何か食べたり買ってもらうのが楽しみなのだ。
帰りは疲れで車酔いしてしまったが、袋の中のおもちゃをのぞくと嬉しくて元気が出た。
「家に帰って具合が治ったら、早く買ってもらった犬だか鹿だかで遊びたい」
そう思いながら真っ青な顔で車に乗っていた。
不穏なふんいきに。
家に着いた。
父はおもむろに犬だか鹿を勝手に袋から出して、イスに乗って天井の釘に輪っかをぶら下げた。
どのくらいひもが伸びて、びょーんとなるのかを見たかったんだろう。
たぶん、具合が悪くなった私に、伸びるひもを見せれば元気が出ると思ったのかもしれない。
しかし不幸にも釘は錆びていたらしく…
がっちゃーん。
床に落ちた赤い犬だか鹿だかは頭が欠け耳が折れていた。
私は青い顔で横になったまま、上から落ちる犬だか鹿を見ていた。
もちろん余計なことをした父は母に怒られ一気に家の中が不穏になった。
そしてそれ以降、カンゴウカイの話になるたびにそのことが話題に登った。
一回も遊ぶことなく壊れた犬だか鹿。
私がそれを犬だか鹿だかはっきり思い出せないのはその為だ。
いつも箱の中で無残にも欠けた頭と耳で、目をキョロキョロさせていたのだけは覚えている。
店で一番輝いていたはずのおもちゃがすっかり色あせた存在になってしまった。
父は1ミリも悪気なくそんな事をしちゃう困った人なのだ。
懐かしさをかんじる。
父に比べたらたいていの人が紳士だ。
あれから40年以上たった。
今年、色んな縁があって私は幼い頃訪れたカンゴウカイで食べものを売るアルバイトをしている。
小遣いを握りしめて買いに来るこども。
その後ろにニコニコ佇むパパ。
令和の今。
現代のパパたちのなんて優しそうなことか。
昭和の身勝手親父だった、私の父のような人など最近のカンゴウカイにはいなくなった。
いいなぁ。
素敵だ。
幼い子供にとっての出店はなぜもあんなに魅力的だったのだろう。
今年も桜が咲き、それを親子で眺めることが出来る。
その幸せの意味が分かるのは、年をとってからのことなのだ。
ぞろぞろ歩く親子連れが目の前を通り過ぎる。
歩く父とそれを母と追いかける身長100センチくらいだった頃の自分。
この年になると、父のデリカシーのなさが少し懐かしい。
美しい桜は人を少しだけ寛容にするのかもしれない。
雑踏の中。
気がつくと、人混みに幼い頃の自分の姿を探している。
ココ