50歳過ぎてからばばあになってきたのか天気に気分が左右されやすくなってきた。
と、思ったら前からだった。
特に冬の寒くなり始めは駄目だ。
今日は一日中暗い気持ちだった。
ずっと一人の方に思いを馳せる一日。
この年齢になると1年間で1度も喪服を着ない年がない。
一回も袖を通さずに1年が終われたらどんなにいいかと思うが今年も残念ながら着る機会があった。
私は幼い頃火葬場の隣の管理人室で寝起きをしていた。その頃死はどうということのない日常だった。
部屋の黒板に日にちと時間と亡くなった方の苗字が書かれていた。
黒い服の方が集まる。
およそ2時間。
その方の生きた年月分、頑張った体が煙突から煙となって旅立つのをほぼ毎日見て育った。
煙を眺めながら体が無くなった後その方の想いや魂はどこに行くのかいつもぼんやり考えていた。
夜、ほうきで火葬場の炉に残った灰と骨の欠片を集め置く場所があった。そこは怖さは全くなく、亡くなった人々の気配が欠片達から騒がしく聞こえるような感じがした。
人々が泣きに来る場所で暮らすのも、生まれた時からその環境であればただの日常だった。泣き崩れる人も2時間後には諦めたように落ち着き帰っていった。
そのせいなのか、死はそれですべて解決する切り札のような出来事に思えた。最後に泣いてもらえる事に憧れさえあった。
それは私がまだ人生など分からない子供だったからだろう。
今年亡くなった知人は59歳だった。コロナ禍で簡単な焼香のみの斎場の片隅にその方の写真と楽器とユニフォームが飾られてあった。
毎年復興マラソンに参加する姿。子供達に吹奏楽を教え指揮をする姿。牛丼を食べる姿。
子供や孫と嬉しそうに遊ぶ姿。
体がこの世から消えて無くなってしまったのが信じられないくらい生き生きした姿がそこにあった。
持ち主を失った楽器やユニフォームからその方の情熱や想いが伝わってきていた。
優しく穏やかだったその方の中にある秘めた情熱は実は生きている時には分からなかった。
おそらく無念だったであろう。
まだまだ生きていたかったであろう。
素晴らしい父はお子さんにとって一生の誇りであるだろう。
自分はあとわずかしか生きられないとして、このように子供に誇りを残して旅立つ事ができるだろうか。
大切に生きなければと心から思った。
子供の頃。
窓から見える泣く人々の気持ちをなんにも分かっていなかった自分も50歳を過ぎた。
今日は一日靴を履かずに窓から暗い空ばかりを見ていた。
明日は朝から靴を履いて、亡くなった方の好きだった音楽を聞きながら外を歩こうと思っている。
ココ