ある頃から私は八月が苦手になった。
できれば八月というものがすっぽりなくなればいいのにとさえ思うこともある。
そのくせ八月が終わって撮った写真を見ると毎年きちんと夏を満喫した顔で笑っている。
人間だれしも表と裏の顔が合って、そのどちらも嘘ではない自分自身。
それが最近少しだけ分かる。
楽しさも悲しみもどちらも二人三脚のようにあるのが自分。
田舎の八月の濃度。
親族が集まるという理由では毎年十二月や一月も身構えてしまうのだけど、八月は特別に濃さを感じる。
親、兄弟、娘、息子、じいちゃん、ばあちゃん、親戚。
おまけにご先祖様まで来るという目に見えない混雑。
あの世から来るのも渋滞してそうだ。
なにか浮足立った大名行列のような大人数の家族が買い物をするスーパー。
都会から遊びに来た孫を目を細めながら連れて歩くおばあちゃん。
その後ろを歩く120%努力中で修行中の嫁。
完全に気が合う訳はなくとも、縁あって身内になった人同士が顔を合わせる時間。
回数を重ねていくごとに長い感想文が書けそうな濃いイベント。
辛抱辛抱嫁。
ガンバレガンバレばあちゃん。
嫁は嫁でたいへんだが、迎える側のおばあちゃんだってきっと一生懸命だ。
家族がバラバラになって、帰る実家というものがない自分。
私の祖父はフリーの坊主だったのでお盆はいつも袈裟を着て墓の中にいた。
時にはお経を唱えに部落を周っていた。
お墓もお盆も幼い頃は身近だったが自分の田舎のお盆からはすっかり遠ざかってしまった。
父方のお墓には20代から行っていない。
わたしはきっと、どこかに普通のめんどくさい営みができる事に
羨ましい気持ちや妬ましい気持ちがあるのだろう。
自分の持っていないものを持っている人。
若いときはお墓参りなんてと思いながら、だらだら後ろを歩いてついていったのだが
いざ縁が切れると思う。
普通というのはあんがい凄い。
あっという間だった。
私がまだ30代の八月。
夫の父は60歳の若さで急逝した。
年金は結局数か月しかもらえなかった。
夫の父は実に心の壁のない人だった。
一時期、割と近くに住んでいた頃は早朝5時前にドアをどんどん叩いて起こされた。
かごに入った採れたての野菜を畑から直行して届けてくれた。
玄関の前に土のついた長靴で立っているじじ。
その時はいつも慌てて作ったありあわせの朝ご飯を出した。
たぶんたいして美味くもなかったはずだが、さも料理上手のように私の作った朝食を褒めてくれた。
出勤前の夫と二人で喧嘩のような口調で話をしながら食べていた。
夫にとって父は自由人で社交的、正反対で理解不能。
二人はいつも平行線だった。
夫はバタバタと仕事に出かけて行った。
その後もじじはすぐには帰らず子供が幼稚園に行くギリギリの時間まで家で過ごしてから帰っていった。
私はそのうち慣れてなにも考えずに娘を預けて家事や身支度などした。
じじはまだ幼かった長女と何か話をしていた。
ひどい水虫で足があまりにも酸っぱくて臭くて、遊びに来た時はいつもそっと部屋のドアを開けっ放しにしていた。
長女は鼻炎でずっと耳鼻科に通っていたので、匂いが分からなかったのが幸いしたのか平気でじじのひざの上に座って遊んでいた。
はじめての女の子の孫だったので可愛かったのだろう。
じじは常に挑戦者だった。
農業の水耕栽培に挑戦したり、ハウスに趣味でバナナを植えたりいつも良く分からない事を同時進行で色々やっていた。お金にはならなかったがなにかの特許をとったり発明みたいなこともしていた。
小屋の中には、ニンニクが醤油に漬かった瓶やスズメバチが漬かった瓶など怪しげなものが何本も並んでいて独特の匂いがした。
いつも来客があって、夫はじじが人に騙されそうな危うさを感じていた。
心配だからあんなにもきつく当たっていたのだろう。
じじの畑の横の草むらの中にポツンとヤギがいた。
放し飼いの烏骨鶏も一羽いた。
やぎは名前がなかったが、烏骨鶏にはイチローという名前があった。
なまっているのでいつも呼ぶ声が[いづろー]に聞こえた。
私の父親についても、わりと平気な態度で話をした。
おそらく事情は知っていたが優しかった。
「おとちゃがばがなごとやってまっても、またおとちゃどおかちゃど一緒に暮らせばいいのに。」
「バラバラで暮らしてもしょうがねーべ」
普通なら言いずらいようなことも、ズバッと私に話す。
きっと本気でなんとかなると方法を模索していたように思う。
私の漠然とした心につきまとう寂しさのようなものを、見て分かっていたのだろう。
かまどけし。
私の田舎では破産の事をこういう表現をする。
かまどけしの家から嫁に来た娘を気にかけてくれたじじは
本当にあっという間に亡くなってしまった。
その夏私は取り乱し、ついに心が壊れた。
でも本当は、身内である夫の心の方が壊れていたはずだ。
あの頃の事を思い出すとわっと叫びたくなるような恥ずかしさを感じるほど、崩れた自分。
なにかあると自責の念にかられる癖は変わらない。
あの年の事はあれから話したことがほとんどない。
みんな薄紙をかけてそっと隠している。
30代のあの年から、私は前にも増して八月が苦手になった。
取り返しのつかない後悔のような感情が押し寄せるのが八月。
毎年。
お盆だけは帰ってきて欲しい。
お墓だけは守っていって欲しい。
何年もそう言われて暮らした。
やらなければならない事ではなく、義務ではなく
淡々とそこに集まって毎年同じ事をする。
喋る人、聞く人。笑う人。騒ぐ子供たち。
親族という濃い関係が集まる後から考えると短い時間。
亡くなった人のためであり、同時に生きている人が少しずつ前に進むための節目でもあるのだろう。
迎え火を焚きながら、去年の事がほんの少し前だったような不思議な気持ちになるのは私がそれだけ年を重ねたのだろうか。
田舎の濃いお盆。
苦手だと言いながら
憂鬱だと思いながら
今年も私はきっと笑っている。
様々な感情があって、悩み苦しむ。
私が間違いなく今、生きているという事なのだ。
早くに亡くなったじじも
どこかにいる父も
母たちも
きっとそれぞれの優しさと憂いや悩み、人生の歴史がある。
その年齢になれば私にも分かることもあるのだろう。
お盆が終わって涼しくなる頃には
きっと心に平穏が訪れるだろう。
ココ