人には優しくありたいと、常に心から思っているし、他人には親切でいたくて実行している。
ところが困ったことに、自分の心の中には頑固なもう一人が住んでいて非常に冷酷で、短気な面がある。
それはまるで鬼婆と言った感じで、腹の中に胡坐をかいてどんと座り、優しい私に、じろりとにらみを利かせている。
ふとしたきっかけで、暴れだしそうな気持ち。
事あるごとに揺れ動く感情。
「ああ、もううんざりだ」
「ああ、これが昔から嫌いだった」
肉親と常に距離をとっていたい冷たい自分。
みんな親を大切にしていて、普通にそれを実行している。
私は父ともう何十年会ってないか数えてもいない。
母とは時折出かけるが、かなり気合を入れてそれに臨む私は、優しくなんかない。
正体は鬼だ。
ネガティブでお腹いっぱい。
母のその口から吐き出される言葉は、昔からナイフのように私の心を傷つけた。
おまえがいなければとっくに離婚できた。
おまえが離婚しろと言ったからした。
10代と20代で言われた矛盾したふたつの言葉。
どちらも私のせいのようだ。
そして50代の今。
大学を卒業する息子が帰ってきたので
二人で訪ねた時にした会話でさえも、私に対しての愚痴が混ざっていた。
「この人は、昔から本当に薄情だった。」
私が過去にした、薄情とやらの発表が始まる。
ザコシ並みに誇張しすぎている。
息子の門出じゃなくて、後日ならもう少し聞いていられたのにと思った。
それでもニヤニヤとしながら、笑って会話をした。
心の中の鬼婆が帰り支度を促す。
「つまらん」
いつも思う。
その場にふさわしい会話を私はしているだろうか?
反面教師。
これも学びなのか。
別人格であると気づき。
ネガティブな言葉ばかりを聞いて育ったせいか、私の心の中には常に罪悪感があった。
自責の念が、心を支配している。
苦労した母を、理解してあげなければと思い、幸せになって欲しいと思っていた。
常に気がかりだった。
さびしくないかしら。
何かで喜ばせなければ。
何ができる?
2個入りのおはぎを売り場で見た。
買って持って行こうかしらと思う。
おはぎを食べて一瞬であっても笑って過ごしてほしいと切望した。
そう言っておはぎを買って持って行きながら、お腹の中の鬼婆は、早く帰りたいと着いた瞬間から騒ぎ出す。
間違いない。
私はものすごく薄情な娘なのだ。
親たちの人生の残りのメモリは、きっとそこまで多くない。
娘を責めてしまうほどの寂しさ。
もっと関わって欲しいから、会うなり文句が出るのだろう。
きっと心の中は、漠然とした不安や、様々な怒りでいっぱいなのだろう。
親の歩んできた人生と、その結果。
見せてくれている姿や言葉すべて。
自分とは別の人間であるということをきちんと理解して、嫌な部分を含めて、ありのままを見よう。
きっと私の子どもたちにだって、夫にだって、誰にだって心の中には鬼がいて
本音を隠しているのだろう。
これからどう生きればいいのかを、年取ってきた母から学んでいるように思う。
ココ